フランス料理を通して「ここでしか提供できないもの」をーー。“本物”を求めてフランスに渡った経験をもつ山口氏が、神戸北野ホテルに出会うまでの歩みを語ります。
ゲスト
神戸北野ホテル 総支配人・総料理長
山口 浩
1960年、兵庫県生まれ。1978年に料理界に入り、大阪のホテルでの修業を経て渡仏。有名レストランにてベルナール・ロワゾー氏に師事し、「水のフレンチ」を学ぶ。1992年に帰国し、2000年より神戸北野ホテルの総支配人・総料理長を務める。
インタビュアー
株式会社 Loco Partners 代表取締役副社長
塩川 一樹
1979年生まれ、立命館大学経済学部卒。株式会社ジェイティービーを経て、株式会社リクルートへ中途入社。旅行事業部にて、首都圏・伊豆・信州エリア責任者を歴任し約2,000施設以上の担当を歴任。2012年7月より株式会社Loco Partners取締役に就任。
自分との闘いだった修行時代
塩川:現在、実力派シェフとして活躍されている山口さんが、料理人を志したきっかけや原点を伺いたいと思います。
山口:幼少の頃、叔父と叔母が母屋で食堂を営んでいて、当時から調理場で遊びながらカマボコを切るようなことをしていました。食堂の近くには工場がありまして、昼休みにはそこの従業員の方が来られるのですが、食べ終わるとどんどん会話が弾んで、ざわざわと賑やかになるのです。そのときから、食を提供する仕事というのは、料理だけではなく、いろいろな楽しみをお客様に提供するものなのだと子どもながらに体感していました。その経験から料理人を志したのですが経済的に調理師学校へは行けず、直接に料理の現場に入ったのです。当時、東京には有名なフランス料理店がありましたが、関西にはそうしたレストランがあまりなかったので、フランス料理の現場といえばホテルだったのです。ただ、ホテルに入ること自体も狭き門だったので、ホテルではなく町のレストランに飛び込みで入って修行を始めました。
塩川:食堂や料理人という仕事に対して、幸せな職業観のようなものを幼少期の頃からお持ちだったのですね。調理師学校へは行かずに現場に入るチャンスを掴んで、その後はいかがでしたか?
山口:現場に入るチャンスは得られたのですが、調理師学校で学ぶというエリートコースからは最初から外れていましたので、やりたい仕事ができるかといえば、そうではありません。自分自身の中で「このプロセスで本当にプロになれるのか」という葛藤はありましたが、やりたい仕事に進むために現状を受け入れて、今の自分に何ができるのかということを逆算しながらがむしゃらに働きましたね。
塩川:料理人として最初のステップを踏み出されて、次のステップへはどのように進まれたのでしょうか。
山口:次のステップへ進むには、レストランの先輩シェフに認めてもらう必要がありました。同僚の中には、厳しさに耐えられずにドロップアウトした人もたくさんいましたが、私には「現状から抜け出すために、与えられているものを自分の中で消化しなければいけない」という強い思いがあったのですね。数年経つと大阪ではホテルラッシュが始まり、それまで狭き門だった「ホテルで修行を積む」という扉が少し開いたのです。そこで先輩からの紹介でホテルに入ることができ、これでハードルを1つクリアしたという思いがあったのですが、私の同期はエリートばかりで、私が町のレストランでキャベツを千切りしているときにフォアグラやトリュフといった高級食材を扱っていたわけです。そうした食材に触れたい、でもそういうポジションにいなかった。その悔しさは、のちに仕事を吸収する大きな力になったと思います。その当時カリスマシェフというような人たちがいらっしゃって、自分もいつかはそうなりたいという思いがありました。目標は常にあって、それを達成するためにはどうすればよいか、そこへ行くために、自分のマイナス部分をどのようにプラスに変えればよいのかと考えていましたね。ホテルでの日々は自分との闘いでした。
塩川:常に「乗り越えよう」という前向きな気持ちを持って、逆境を自分の強みを認識する機会に変えて邁進されたのですね。
山口:当時、エリートコースを歩んできた主任と呼ばれる27、8歳の人はクラウンという高い帽子をかぶって、ストーブ(調理する火口の前)で調理を行っていたのですが、私がホテルへ入ったときの年齢は23歳でしたので、自分がその時の主任の年齢に達したときに同じことをしていれば、それまでの自分のプロセスは間違いではなかったと言えるのだということが次の目標になりました。そして、フランス語も勉強しようと思いまして、仕事をしながらフランス語の学校に通い始めたのです。
塩川:目標が見つかり、語学もきちんと身につけようという新しい道筋が見えてきたのですね。
山口:そうですね。当時はフランス語がきちんと話せる人間はあまり多くなかったので、目立つのですね。私はエリートではないので、何か目立たないといけないという思いがあって、さまざまなコンクールに出たりもしました。それで優勝したことを総料理長に報告すると、総料理長が社長のところへ「うちのスタッフがこんな賞で優勝しました」と報告するわけです。部下の頑張りが認められるというのが上司の誇りにもなったのか、私はメインダイニングを担当させていただけることになりました。そこで主任という仕事を与えていただき、クラウンをかぶって黒ズボンを履くという目標を想定よりも2年早く達成したのです。
ロワゾー氏との出会いと、「新しいフレンチ」の衝撃
塩川:それから、本場を知りたいということで、フランスへ行きたいと思われるようになったのですね。
山口:日本人が作るフランス料理は、「異国人が作る異国の料理」なのです。ヨーロッパ修行の経験があるシェフならば「これはフランス料理です」と言い切れるかもしれませんが、当時の私は日本で作られたフランス料理しか知りませんので、「たぶんフランス料理です」としか言えないのですね。それでフランスへ行きたいと思うようになりました。その後、お世話になっていた先輩のツテでフランスに行くことができました。
塩川:念願だった渡仏を叶えて、その後の歩みは順調だったのでしょうか。
山口:実は、フランスでの就職先が決まっていたのですが、政府間の問題でビザが下りなくなってしまったのです。それまで勤めていたホテルには退職願を出して受理もされているのに、渡仏後の働き先がなくなってしまったのですね。そこで、まずは観光ビザで入国して自分で仕事を探すことを決意しました。まずパリで働き、その後足を運んだのがベルナール・ロワゾー氏のレストラン「ラ・コート・ドール」で、「ここで働きたい」という思いを伝えたのです。すると、ちょうど欠員が出るということで雇っていただくことができました。
塩川:数奇なご縁が紡がれて、ロワゾー氏のお店にたどり着いたのですね。そこから、どのようにフランス料理を学ばれたのですか?
山口:すべてが一期一会の積み重ねだと思うのですよ。私が最初に働いた町のレストランは、日本のフランス料理の基礎を築いた横浜のホテル出身の方がシェフでしたので、コンソメも自分のところで引き、すべてのものを手づくりしていました。その店では、フォアグラやトリュフなどの高級食材には触れることはできませんでしたが、基本的な料理技法については相当な数をこなし、その後ホテルでは色々な食材に触れていたのですが、バターと生クリームを使わずに料理をするロワゾー氏の新たな手法には大きな衝撃を受けました。今までのやり方とは、まったく違うものだったからです。当時のフランスでは、彼の料理は色々と揶揄され、フランス料理界の帝王として有名なポール・ボキューズ氏からも「ロワゾーの料理は川の流れのように流れていくだろう」と言われていたほどでした。
塩川:それでもロワゾー氏に師事された理由は、どこにあったのでしょうか。
山口:ロワゾー氏は1970年代前半、20歳代でラ・コート・ドールに来ました。お客様の中には、頻繁に「昨日は美食をしてきたから今日は何か軽いものを出してくれ」と言う方が多くいたのだそうです。しかし、ロワゾー氏はそうしたお客様の情報から、フランス人がフランス料理を怖がっていると仮説をたてたのですね。彼らが昨日パリで食べた食事も、明日南フランスで食べる食事も、本当に食べたいものではないのだと。そこで、生クリームやバターを使わないシンプルな料理を世の中が求めていると考えたのです。
塩川:お客様が欲している生理的なものまで鑑みて追求した、それが本物の料理の表現なのだということですね。
山口:そうです。そしてもうひとつ、彼はフランス料理も厚化粧する必要はないと考えたのです。当時、ラ・コート・ドールでは、朝にパリの市場でセリにかかった素材が昼間には250kmはなれたこの地方の村にまで届くようになっていたのです。鮮度の悪さを生クリームやバター、香辛料やテクニックで隠すようなことをしなくていいわけです。彼は冷静にお客様が求めるものを判断して、フランス料理はこのままではいけないと行動に移したのですね。ロワゾー氏と働いたのはトータルで13年ほどですが、その中でいろいろなことを教えていただきました。一流のシェフは本当に上品で、声を荒げたりもしない、そういうものだと私は思っていたのですね。ところが、フランス人の料理長はそれぞれ個性的なのです。おとなしい人もいますが、ロワゾー氏は破天荒な方でしたね。それを見ていると、成功した人のスタイルを真似ながらピラミッドの頂点を目指していくというのは日本的な考えで、フランスでは空に輝く星のように色も輝き方も違う、個性を磨いていけば良いのだと思いました。
塩川:フランスに渡り、出会いをチャンスに変えて、料理の技術だけでなくて考え方も非常に大きな影響を受けた期間だったのですね。
山口:そうですね。充実した期間でした。フランスにいるときは日本語をほとんど使いませんでしたが、そのおかげで逆に日本人としてのアイデンティティが見えてきたのです。「異国人が異国の料理を作っている」ことに対して、果たしてそれでいいのかという課題を感じるようにもなりました。
日本での成功、そしてゼロからのスタート
塩川:そして1992年、ラ・コート・ドールが日本初上陸を果たす際に、日本人料理長として凱旋帰国をされたのですね。
山口:フランスで修行をしていたということ、そして話題のレストランが日本に初出店するということで、凱旋帰国になりました。当時、40歳を超えてようやく料理長になれるというのが一般的でしたが、私は30歳そこそこでしたので、頂点を極めたような気でいましたね。錯覚していたかもしれません。
塩川:周りからは、一世を風靡していると捉えられたのでしょうね。
山口:ロワゾー氏の料理は最先端ですからね。私よりもひと回り年上のシェフたちがやって来て、ラ・コート・ドールの料理に驚くのです。中には、やはりポール・ボキューズの料理が一番美味しい、こんなものはフランス料理ではない、という方もいました。料理長が若すぎるという話もありましたが、それでもフランスの本家から来ているので、みんな奥歯に物が挟まったようなことしか言えないのですね。そして、時代はロワゾーだということで、ひっきりなしにテレビ、雑誌など取材が来ましたね。私も30歳くらいで、世の中というものを十分には理解していませんから、これで来るところまで来たなと錯覚するのですよね。
塩川:日本のフランス料理界を駆け上ったという感じがあったのですね。
山口:ありましたね。ただ、自分は日本人がフランス料理を作っていることに、一種の違和感を覚えていました。私のミッションは、フランスのソリューという村で出しているラ・コート・ドールの料理を神戸で再現することです。それでも、私の中では同じものを作るというミッションは最初の3年間でやめようと区切りを設けました。その次の段階として、ロワゾー氏のエスプリやフィロソフィーを取り入れて、神戸の素材でフランス料理を作ろうという思いがあったのです。そして1994年12月にロワゾー氏が来日した際、「山口、来年からの新しいスタイルは任せるぞ」ということになったのですが、翌年1月17日に震災が起こりました。
塩川:いよいよこれからというときに、あの震災が起こったのですね。
山口:その半年後にはラ・コート・ドールの日本からの撤退が決まり、私は金看板を失いました。そこで自分が錯覚をしていたのだと思い知らされたのです。フランスでロワゾー氏に認められて帰国し、料理長をしていることはすべて自分が頑張ったからだと思っていたのですよ。そうではなく、本当はフランスの本家から来ているという後ろ盾あってのことだったのですね。手のひらを返したような扱いを受けましたが、思いがけず人の優しさに気が付くこともできたので、それでよかったのかもしれませんね。
塩川:すべてを失いゼロからのスタート、そこからどのような展開がありましたか?
山口:ラ・コート・ドールとは別のどこかで働いたとしても、料理人はなかなか難しいなと思いましたね。私自身のミッションを遂行することが、誰の幸せにもつながっていなかったのではと悩むこともありました。それで、大手の食品会社の開発部門に就職して半年ほどその仕事を続けましたが、やはり料理人をしたいと思い神戸のとあるホテルに就職しました。ところが、そのホテルの調理場がひどかったのですね。そこで、ラ・コート・ドールで働いていた仲間たちを呼び寄せて共に改革を進め、ホテル全体の売り上げを画期的に伸ばしたのです。そうしたことが話題になり、この「神戸北野ホテル」の再オープンにあたってお声がけ頂きました。
塩川:神戸北野ホテルと出会ったとき、どんなお気持ちだったのでしょうか?
山口:ラ・コート・ドールは大手ホテルの中にあったので、自分が作った舞台ではなかったのです。ですから、小さくても手づくりでもいいから自分の舞台を作るのだという思いで2000年に「神戸北野ホテル」をリニューアルオープンさせました。オープニングレセプションでは、お客様は来てくださるだろうかという不安があったのですが、業界やマスコミ関係の方を含め、ホテルに入りきれないほどの方々にお越しいただきました。そして開業から年間500以上の媒体に取材をしていただき、それが私たちを後押ししてくれました。
フランス料理を通して、「ここでしか提供できないもの」を
塩川:2000年のオープンから16年が経過しましたが、これまでの歩みの中で、どのような点を磨いてきたのでしょうか。
山口:これまではブランドを守るということで、他店舗展開や物販の立ち上げを行ってきましたが、2015年あたりからホテルという仕事にもう一度立ち戻りました。私はここで新しい舞台を作ろうと思っていたのですけれども、実際に作ってみますと、ホテルという舞台を維持するための仕事が多いのですよ。料理人として雇われているときには銀行やクライアントの方と会うようなことはありませんが、経営者として、また総支配人・総料理長としてはそういったこともしなければいけません。葛藤もありましたし時間も必要でしたが、優秀なシェフは自分のやりたいことを自分以外の人間にさせることができるものだという考えに至りました。
塩川:今、お客様の反応をご覧になって、どのようなところが神戸北野ホテルの強みだと実感されていますか。
山口:ロワゾー氏が自分の料理を決めたときと同じで、「ここでしか提供できないもの」をご用意していることですね。私たちのホテルは30室、レストランは40席のフレンチレストランと70席のダイニングレストラン。ですから、大資本と同じセグメントのお客様を狙ったり、レッドオーシャンの中に入ったりしても意味がないのです。むやみに競争の中に入っていくと、いつの間にか駆逐されてしまうということがあるので、自分たちが競争の中で優位に立つためにはオリジナリティが必要だと考えています。1年前に始めたナイトデザートブッフェや世界一の朝食もその一例ですが、堅実といわれる今の若い世代を見据えた取り組みをしていかなければと思っています。
塩川:今後の展望や、未来のお客様に対して何かメッセージはございますか?
山口:フランスでロワゾー氏の料理を見たときに、時代の要請から生まれた彼の料理は、今後の日本のフランス料理界に大きな影響を与えるだろうと考えました。こんなものはフランス料理ではないと言われた時期もありましたが、それから20年ほど経った今、生クリームとバター主体で料理を作っているレストランはほとんどありません。ですから、今後もロワゾー氏のエスプリを守りながらお客様に耳を傾けて料理をつくっていきたいということが展望のひとつです。今、ようやく私は日本人としてフランス料理を選んでよかったと思うようになりました。昔はパリで食べるものを日本でも食べたいというお客様の要望がメインでしたが、地産地消という風潮へ変わってきています。そこで、フランス料理という科学的な裏付けをもつ調理技術が活かされます。日本の素材と四季に最新のフランス料理の技術が融合することによって、世界中の人に日本の味覚や素材を楽しんでいただけるのです。
塩川:フランス料理の技術があれば世界中の方々に日本の味を届けることができるのですね。
山口:日本の素材を世界でもトップレベルの技術で提供することは、自分が日本人だからこそ出来ることだと気付き、日本人としてフランス料理を選んでよかったと思えるようになりました。ただ、あまり先を行き過ぎるとお客様はついてこられませんので、常に状況を見ながら半歩先を行けば、時代に認められると思いますね。また、伝統を守るというのは伝承するということとは違います。伝承というのはまったく同じものを守るということで、それも大切なことなのですが、今の時代を投影しながら次の世代に引き継いでいくことで、伝統を守るのです。先輩方が引き継いだ伝統があるから今があるのだと、今の世代の人たちにも理解して欲しいですね。
塩川:料理人として現場に飛び込まれてから、さまざまなご縁に恵まれて神戸北野ホテルにたどり着かれたのですね。フランス料理の持つ可能性にこれからも期待をしています。本日はありがとうございました。
写真:ayami / 文:宮本 とも子
神戸北野ホテル 総支配人・総料理長
山口 浩
1960年、兵庫県生まれ。1978年に料理界に入り、大阪のホテルでの修業を経て渡仏。有名レストランにてベルナール・ロワゾー氏に師事し、「水のフレンチ」を学ぶ。1992年に帰国し、2000年より神戸北野ホテルの総支配人・総料理長を務める。