株式会社かりゆしの代表として沖縄の観光を牽引してきた當山氏。生い立ちやこれまでの歩みに加え、沖縄にかける想いや将来の展望を語っていただきました。
※2018年12月取材当時
ゲスト
株式会社かりゆし 代表取締役社長(2012年4月〜2020年3月)
當山 智士
1959年、沖縄県生まれ。1986年、有限会社ホテルなは(現・株式会社かりゆし)に入社後、2012年に代表取締役社長に就任し現在に至る。多年にわたり観光業に従事し、地域や観光の振興・発展に尽力している。
※2012年4月から在籍し、2020年3月に退職。
インタビュアー
株式会社 Loco Partners 代表取締役副社長
塩川 一樹
1979年生まれ、立命館大学経済学部卒。株式会社ジェイティービーを経て、株式会社リクルートへ中途入社。旅行事業部にて、首都圏・伊豆・信州エリア責任者を歴任し約2,000施設以上を担当。2012年7月より株式会社Loco Partners取締役に就任。
第1章 色濃く残る、「沖縄返還」の記憶
塩川:まずは當山社長の生い立ち、そしてこれまでの歩みをお聞かせいただけますか?
當山:生まれた場所は、いま話題になっている辺野古地区です。ちょうど米軍統治下の時に生まれ、中学2年生の時に沖縄が日本に復帰しました。その時までずっと米軍の統治下、ましてや辺野古という米軍の最前基地でしたので、日本人的というよりも沖縄人的なアイデンティティを強く持っている世代なんでしょうね。最前線の基地でしたから、道路にはカーキ色のジープやトラック、戦車などが走っており、街中では戦争に危機感を募らせる米兵が昼間から大騒ぎしているような状態でした。カーキ色、迷彩色の時代でしたね。ところが日本本土は、少なくともテレビで見る限りでは高度経済成長の真っ只中、まさにバラ色という感じで、「こんなにも色が違うんだ」と思いながら過ごしていました。ポリティカルな思想や、日本人に負けちゃいけないよねという思想はかなり強く植えつけられた世代だと思います。
塩川:人生観の根幹はその時に作られているわけですよね。
當山:そうでしたね。沖縄返還に関しても県民同士が何かしら賛否を問うような中で、沖縄って、沖縄の人のアイデンティティって何だ?というのを考えていました。
塩川:1972年5月15日の復帰は、かなり色濃く覚えていらっしゃると思うのですが。
當山:はっきり覚えていますね。当日は本当に、驚くほどの大雨でした。那覇の市民会館で国の行事として沖縄返還を祝う会が催されているかたわら、その隣の大きな公園では復帰反対の行進がされていたり。米ドルから日本円への切り替えもすごく大変でした。
塩川:なるほど。そこから社会人になるまで、何か振り返るべきトピックはあったのでしょうか?
當山:そうですね。「かりゆし」(※1)に来る前は、実は東京で体育の先生をやっていました。27歳の時、当時新しくできた「オーシャンスパ」(※2)という施設を手伝うために沖縄に帰りました。沖縄国際海洋博覧会で沖縄が注目され、慰霊の参拝地というイメージが本格的なリゾートに変わっていく時期でした。航空会社のキャンペーンなんかもあって、非常ににぎやかでしたね。
塩川:もちろん、東京でもお仕事があったと思うんですが、もう戻られることは決めていたのですか?
當山:はい。当時、オーシャンスパの顧問をされていた国会議員の方が父と友人だったので、特に異を唱えるわけでもなく沖縄に戻りました。
塩川:そこで、かりゆしとの出会いがあるわけですね。
當山:そうですね。ちょうどオーシャンスパの建設の真っ最中でした。うちの企業が本格的に観光事業に着手する第一歩でしたね。
※1:株式会社かりゆし
※2:沖縄かりゆしビーチリゾート・オーシャンスパ
第2章 「観光地としての沖縄」に見出した光
塩川:中学2年生のときに沖縄返還があって、その先も自分たちのあり方を考えることが気持ちとして原動力になったり、自分たちがどう存在感を発揮していくかという思いに展開していったのでしょうか。
當山:はい。その当時からすでに、沖縄は観光がいいよね、とか、観光業なら本土に対抗できるポテンシャルを秘めているかもしれない、という話をしていました。沖縄が日本に復帰したあとで、経済的に自立するための産業を模索している時期だったので、当時の観光人たちは沖縄の天候や気候、そして持っているホスピタリティを武器に、必ず観光地として自立できると考えていたんですね。行政が沖縄を観光立県として宣言したのは1995年。沖縄返還が1972年ですから、観光立県宣言の20年近くも前からすでに観光地としての将来性を見抜いていたということです。
塩川:高度経済成長を横目に見ながら、反骨心のようなものがあったのかもしれませんね。
當山:それもありましたし、これまでの慰霊観光ではなく、ライフスタイルとしての沖縄への旅、ツーリズムは間違いなく産業として確立できるという確信がありました。それをサポートするように航空会社のキャンペーンが始まったので、航空経済にとってもひとつの時代の始まりだったように思います。
塩川:その中でかりゆしと出会って、ここまで非常に長い道のり、紆余曲折を経て来られたと思うのですが、どういう風に走って来られたのでしょうか。
當山:そんなに長かったとは思いません。27歳の時に沖縄に戻ってすぐオーシャンスパにフロントスタッフとして入り、24時間365日、無我夢中で全ての業務をこなしていました。何もわからない業界でしたが、最初から建物ができ上がっており、全ての業務をマルチにこなす日々は非常に楽しかったです。事業として成功している実感がありました。30代の間は朝から晩まで働きづめだったので、最初の10年はもう覚えてもいません。
塩川:東京から沖縄に戻られた時に、将来的に社長になっていらっしゃるとか、沖縄の観光を牽引する企業規模のイメージを抱くことは簡単ではなかったと思います。駆け抜けてきた年月の中で、當山社長にとってのかりゆしはどう変化されたのでしょうか?
當山:沖縄の人たちにとってかりゆしは地元の企業ですし、我々も地縁・血縁がしっかりここにあります。だから悪いことや期待を裏切ることができません。何よりも正直に、沖縄のためにやっていくしかないなという、いわゆる「かりゆしイズム」がありました。未来がしっかり見えていたということなんでしょうね。
塩川:沖縄で真摯に観光業に取り組まれ、それを武器にお客様をもてなしていくんだという企業になっていく中で、沖縄がお客様に提供できる価値・体験など、魅力に関する再発見はありましたか?
當山:当初の沖縄の魅力は青い海と青い空という感じで、国内旅行というよりは海外旅行に近いようなイメージを持たれていました。ところが時代の流れとともに、「旅」は大げさなものではなく、地域との交流やコミュニケーションをより重視したものになってきています。そのため、21世紀は間違いなく観光の時代になる、という予想をもとに、未来を見ながら投資をしていくというところに重きを置いていましたね。
第3章 経営と自転車の意外な共通点
塩川:社長という重責を担いながら、土日は自転車で走り回っていらっしゃると伺っています。150キロほど走ることもあるとのことですが、それだけ自転車に熱中する理由をお聞きしたいです。
當山:自転車との出会いは、僕にとって非常に有意義だったなと思います。自転車の何がいいかというと、道が悪かったり急な坂があったり…というさまざまな逆境を、自転車とひとつになって乗り切っていける時の快感なんです。足もパンパンでかなり苦しいのですが、その快感にハマってしまいました。社長業にも少し似ていますよね。
塩川:安定した道ばかりではないですものね。
當山:路面も悪いですしね。ただ、厳しい状況でも、乗り方やテクニックを覚えることで乗り越えられるんです。苦しいことは苦しいけれど、しっかりと力強くなっていくという部分は社長業に通じるところがありますね。あとは、戦術。さっきも言いましたが、いくらトレーニングしても坂を登る苦しみは変わりません。ただ、時速20キロで登っていたものを、時速25キロにすることはできる。
塩川:仕事にしても自転車にしても、事前の準備や走っている仲間によって体感もだいぶ違ってきますよね。その部分が社長業に通じてくる、と。
當山:そうですね。特に先頭を走っていると、風圧でものすごくパワーを使います。反対に後ろを走っている人は、先頭の人を鼓舞する役目もある。チームワークって本当に大事です。
塩川:現在、社長としてかりゆしグループの先頭をきって、まさに風を受けながら引っ張る立場にいらっしゃると思うのですが、どういう役割を果たそうとお考えですか。
當山:10年先の未来を見据えながら、ただの観光業ではなく、沖縄の基幹産業のトップになりたい、そしてなれると思っています。それを一緒に担っていくスタッフに対しても、かりゆしイズムと未来は常に共有していきたい。
塩川:全責任はトップが負うという覚悟の現れですね。スタッフのみなさんには未来の姿をいつも共有されているとのことですが、逆にこれまでの先輩方の想いはどのようにして伝播させていらっしゃるのでしょうか。
當山:創業者の平良盛三郎は、間違いなく観光が商売になると確信した人です。現在の二代目が、観光という道筋をしっかり決めてモデルを作りこみました。三代目は志半ばで病に倒れたのですが、沖縄の観光をさらにパワーアップさせるためのシステム作りをした人です。
塩川:具体的なHOWを示されたのですね。
當山:はい。三代目が未完成ながら戦術や戦略を示したので、僕はそれを完成形に近づけたいと思っています。生産性を上げ、スタッフたちの福利厚生や賃金を充実させ、まずは企業としての幸せ所得を上げていく。なおかつ、間違いなくやってくる2020年の大観光時代に向けて、未来への投資を継続してやっていきたいと考えています。端的に言えば、幸せ所得向上のための課題解決と未来へのさらなる投資。この二つが、僕の使命だと思っています。
第4章 かりゆしが牽引する、沖縄の未来
塩川:先代たちの想いを引き継いで、沖縄とともにあるということの意義を大きくしてきているわけですね。
當山:今のかりゆしグループの成長速度は、沖縄の経済の成長速度とちょうど合っていると思っています。沖縄の経済成長は現在3パーセント前後で、今や日本のトップクラス。沖縄が日本の経済を牽引する時代がくる、ということです。
塩川:おっしゃる通りかもしれません。ホテル事業の中でもいくつかポートフォリオがあると思うのですが、それぞれのホテルのあり方をお聞きしたいです。
當山:ホテルは7つあり、来年もう2つ完成予定です。ラグジュアリー系からローコスト系まで、全てのニーズに対応できるホテルが揃っています。また、年間およそ80万人のお客様にお越しいただいているので、そのノウハウを生かしてオペレーションをさらにブラッシュアップできると考えています。さらに、東京、大阪、福岡に加え、台湾、韓国、香港にも支店を作り、よりグローバルになったマーケットに対して対応できるようにもしています。これからは「ホテル」ではなく「ライフスタイル」をどう売るかがテーマになってくると思っています。
塩川:なるほど。「ライフスタイルを売る」上で、かりゆしグループとしてお客様に喜んでいただくために意識していること、スタッフのみなさんと共有していることをお伺いしたいです。
當山:お客様の支持や信頼を得ること。特に、お客様からのリクエストにはビジネスチャンスがたくさんあるので、自ら積極的に現場に介入しています。
塩川:なるほど。これまでお話を伺って、當山社長はすごく現場と距離が近いなと感じます。それほどまでに現場にこだわる理由は何なのでしょうか。
當山:やはりすべては現場で起こっていますからね。できるだけ現場に赴いて、彼らの幸せ所得を高めたい、と常に思っています。そのために、まず利益を出し続けることが僕の仕事です。
塩川:常にスタッフのことを考えていらっしゃる、おおらかさを感じます。全員に良くなってほしいと願いつつ、時には厳しいジャッジを下す必要もあるんですね。
當山:一生懸命やれば報われる、というのはモチベーションになると思います。結論が出ないので非常に難しいですが…。
塩川:最後に、ざっくばらんではあるのですが、當山社長の夢をお伺いできますか。
當山:先ほど少し触れましたが、沖縄ナンバーワンの企業になること。なれるという確信もあるので、なりますという言い方のほうが正しいですね。それ以外には、地域の創生に積極的に関わっていくということでしょうか。やはり沖縄そのものの地域創生事業ですから、沖縄全体の幸せ所得を上げていくために、観光事業者が積極的に関わっていく必要があると思います。今までは自社の発展、自社の企業としてのあり方ばかり求めていましたが、これからは社会的な貢献にも積極的に関わりたい。観光事業者としてだけでなく、地域から愛されるという意味でもナンバーワンになりたいと考えています。「沖縄に行ったらかりゆしに泊まらないとダメでしょ」と言ってもらえるような、いわば「県民御用達の宿」のようなイメージです。
塩川:沖縄代表の宿、ですね。
當山:今すぐにできることではないと思いますが、かりゆしは沖縄のためにしっかりやっているね、と言われるぐらいの信頼を得られる企業になってほしい。僕の世代だけではなく、次にもしっかり託していきたいと思っています。
塩川:心に残る印象的なお話をたくさん聞かせていただきました。ありがとうございました。
写真:仲松 明香 / 文:森 幹也
※この記事は2018年に取材・制作したものです。
株式会社かりゆし 代表取締役社長(2012年4月〜2020年3月)
當山 智士
1959年、沖縄県生まれ。1986年、有限会社ホテルなは(現・株式会社かりゆし)に入社。2001年1月に沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハ取締役総支配人に就任。同年10月、沖縄かりゆし琉球ホテル・ナハ取締役総支配人へ就任し、2ホテルを束ねた。2009年1月に常務取締役、2012年1月に専務取締役、同年4月に代表取締役社長へ就任し現在に至る。多年にわたり観光業に従事し、各団体の役員を務めるなど、地域や観光の振興・発展に尽力している。