Relux Journal

伝統とモダンが融合する和のラグジュアリーリゾート、鬼怒川金谷ホテル。代表の金谷氏が大切にするブランド・ステートメントや、ホテルのストーリーを語ります。

ゲスト

金谷ホテル観光株式会社 代表取締役社長 金谷 譲児

金谷ホテル観光株式会社 代表取締役社長

金谷 譲児

1973年生まれ。大学時代をスイス・アメリカで過ごし、THE KITANO HOTEL NEW YORKにてホテル・マネジメントを学ぶ。2001年に帰国し金谷ホテル観光株式会社に入社。2008年に鬼怒川金谷ホテルの総支配人に就任後、2011年3月より現職。

インタビュアー

株式会社 Loco Partners 代表取締役副社長 塩川 一樹

株式会社 Loco Partners 代表取締役副社長

塩川 一樹

1979年生まれ、立命館大学経済学部卒。株式会社ジェイティービーを経て、株式会社リクルートへ中途入社。旅行事業部にて、首都圏・伊豆・信州エリア責任者を歴任し約2,000施設以上の担当を歴任。2012年7月より株式会社Loco Partners取締役に就任。

アメリカに学んだ学生時代

鬼怒川金谷ホテル

塩川:まず、金谷さんのこれまでの歩みをお伺いしたいと思います。

金谷:私は小学校から高校まで東京におり、海外留学を経てアメリカで就職しました。最初にポール・スミス・カレッジという短大でホテル学科を2年専攻したあと、サンフランシスコでインターンシップを経験し、その後ホテルマネジメントを学びました。最後にニューヨークへ行き、THE KITANO HOTEL NEW
YORKでマネジメント・トレーニーとして働いていたところ、9.11のテロ事件が起こり、職場に大きな影響が出てしまいました。同時期に父親から戻って来て欲しいといわれたこともありまして、2001年に金谷ホテルを継ぐために帰国しました。

塩川:アメリカへの留学、就職を決意されたのには、なにかきっかけがあったのでしょうか?

金谷:私は不得意なところを伸ばして平均化するという考えではなく「シュートが上手いのであればシュートの練習をして個人の弱い部分はチームとして補う」というような、個人の長所を伸ばし、よりチームを強化するという考え方を持っていたのですね。そこで若いころの私は、高校卒業後は日本ではなく海外に出たいと強く思っていました。

塩川:「個性を受け入れる文化」に惹かれたのですね。その思いのとおり、アメリカのポール・スミス・カレッジへ進学されたと伺っています。どのような学生生活を送られたのですか?

金谷:当時は、冬季オリンピックが開催されたレークプラシッドの隣町に住んでいましたが、そこでは夏になると学生が運営するホテルがあり、さまざまな企画・宣伝して町の人を集めるのです。例えば僕たちはアジアンブッフェを企画しました。そのほかにもバーで働いたり、隣の旅行会社で働いたりと様々な経験ができました。そこで2年ほど学んだあと、サンフランシスコへ行き、ザ・リッツ・カールトンでインターンシップとして働きました。

塩川:インターンシップではどのようなことをされていたのですか?

金谷:クラブフロアでの配膳やコンシェルジュのお手伝いを5ヶ月ほど経験しました。お客様と接する機会といえば、コーヒーのサーブ、ラウンジでの簡単な軽食の給仕のときですね。とても勉強になりました。

塩川:一流のサービスに触れることができたけれど、さらなるキャリアアップを考えて再び学びの必要性を感じられたのですね。その後に入学したネバダ州立大学ではどのような授業があったのですか?

金谷:どう組織をまとめるかというようなグローバルな組織論やマーケティングの講義などもありましたね。当時のラスベガスはホテルラッシュで仕事もたくさんあり、ラスベガスのホテルでも働きました。

塩川:それから、ニューヨークのTHE KITANO HOTEL NEW YORKに入社されてからのお仕事は、どのようなものだったのでしょうか。

鬼怒川金谷ホテル

金谷:そうですね。THE KITANO HOTEL NEW
YORKでの3年間、ベルボーイからスタートし、ハウスキーピングのアシスタントマネージャー、フロントデスクアシスタントマネージャーとしてはたらきました。その中でもっとも勉強になったのが、ハウスキーピングでした。ホテルの中でも特にハウスキーピングには色々な人種のスタッフがいて、平等性に欠けると判断されるとユニオンが出てきてストライキになってしまうのです。そのような体験からも実際に組織内をどう平等にするかを仕組化したり、コミュニケーションの方法を模索することがとても重要なことであると実感しました。当時は私も若かったですし、外国人でもありましたので、「まずはこちらの姿勢を見せ、一緒にやる」ということの大切さも感じました。そこは今の旅館業にも通じています。

激動の10年間を乗り越えて

塩川:そうした中で9.11のテロ事件が起き、日本のお父様からも会社を継いで欲しいとお声がけがあって帰国されたのですね。日本に戻り金谷ホテル観光株式会社に入られていかがでしたか?

金谷:組織が旧態依然としていることへのカルチャーショックが大きかったですね。当時は宿泊施設の顧客情報もデータ化されていなかったので、情報企画室というものを立ち上げて、まず顧客情報のデータ化と整理、そして当時、旅館業ではあまり積極的ではなかった自社ホームページ立ち上げに取り組みました。

塩川:まずはIT化をしていこうとされたのですか。

鬼怒川金谷ホテル

金谷:そうですね。当時は鬼怒川温泉ホテル、鬼怒川金谷ホテルの双方を情報企画室から俯瞰しながら自由に動いていました。ただ、帰国して1年目の2002年の鬼怒川温泉ホテルで食中毒事故や、足利銀行の破綻、4年目には会社が再生機構に入るなど、次々と問題が噴出しておりました。そんな大変な時期にスタッフが一丸となって取り組んでいたのですが、自分が本格的に組織に参加したのはそこからだったのです。

塩川:日本に戻られた直後から、大変なことが次々に起こったのですね。

金谷:いろいろな問題が重なって会社の経営が行き詰まり、2004年には産業再生機構に入ったのです。父はすべての経営責任をとって会社を離れ、もちろん祖父の写真も先代の写真も全部外されてしまいました。私は事業再生の条件として自分自身が一社員として残るという道を選びましたので、そのあとの4年間は会社をどう再生させようかと必死でしたね。

塩川:そこからがむしゃらに建て直していかれたのですね。

金谷:そうですね。2005年に産業再生機構がスタートしてから4年間は、収益をどう上げていくかということと旧態依然とした体質改善に取り組みました。2009年に事業再生が終了した際には、資金を集めてホールディングスを立ち上げ、金谷ホテル観光株式会社を買い戻しました。

塩川:2001年から10年ほど、激動の時間を過ごされたのですね。

金谷:はい。社長に就任してからのことを振り返ってみると、自分でも驚くほど困難やトラブルを乗り越えてきたように思います。

スペックではなくストーリーを売るということ

鬼怒川金谷ホテル

塩川:鬼怒川金谷ホテルのようなしつらえを拝見すると、旅館という枠組みを超えて企業体として世に出ていくのだとも感じられます。

金谷:私が経験したものをホテルに反映する、あるいはスペックを売るというよりも、「ストーリー」を売ろうと考えているのです。4年前に鬼怒川金谷ホテルをリブランドした際に、私たちはブランド・ステートメントを作成しました。情報共有は大切ですが、数字は共有できてもビジョンを共有するというのは難しいことです。そこで、社員全員でイメージを共有してお客様のペルソナを設定し、そこから連想される3つのキーワード、「伝統」と「和洋」と「コンテンポラリー」を拾い上げ、自分たちの進むべき方向性を「進歩的かつ伝統的」、「格式より粋」、「フォーマルから少しカジュアルへ」、「男性目線の美学」のように細かく分析し全社員が共有しています。

塩川:そこからどのようなブランドアイデンティティを導き出されたのですか?

金谷:鬼怒川金谷ホテルは、日本最古のホテルをルーツに「東洋と西洋」、「伝統とモダン」のサービスが心地よく融合する「和のラグジュアリーリゾート」であるというところにたどり着きました。これに当てはまるサービス、料理、しつらえを目指すということでもあります。また、祖父であるジョン金谷鮮治をブランドパーソナリティとして、それをお客様に伝えるために「East meets
West」、東洋と西洋と交わるところが旅館とホテルであるという概念に、「リゾートエレガンス」という言葉を落とし込んでいます。そのブランドアイデンティティを実施するために各部署で禁止事項、推奨事項を決めているのです。

塩川:そうしてできたブランド・ステートメントが全体の行動規範になっているのですね。

金谷:私の感性のみで運営しているように見えるかもしれませんが、実はこうしたブランド・ステートメントをつくり上げているのです。そうすることで、私の軸がぶれそうになれば「ブランド・ステートメントと違う」ということで再考させられます。コンセプトを維持するために、毎年少しずつブラッシュアップしていますね。枠組みがなくてなんでもアリになってしまうのはよくありません。方向性がぶれないようにする必要があります。

二期倶楽部二期倶楽部二期倶楽部

塩川:お客様にとって満足いただけるように、全社員のみなさまでひとつの方向に向かっていける環境づくりを推進していることがわかります。

金谷:儲けがあればなんでもいい、ではなくビジネスの方向性は明確でないといけません。鬼怒川金谷ホテルは女将制のない旅館ですので、ブランド・ステートメントがないとぶれてしまうのです。リニューアル前は、鬼怒川金谷ホテルといえば「料理である」、「サービスである」という人もいれば、「お馴染みさんに支えられていることが何より重要」と、社員それぞれが思い思いのイメージを持っていました。それは悪いことではないのですが、それだけでは同じ方向性でビジネスを走らせるというのは難しくなってしまいます。

塩川:今の金谷さんの自己評価はいかがですか?

金谷:自分としてはまだまだですね。2012年にブランド・ステートメントを立てたときに、稼働率、売上、単価それぞれの目標を定め、それは3年間で達成できました。再生を終了したあとに鬼怒川温泉ホテル・鬼怒川金谷ホテルとも良い方向に向かってはいるのですが、それは一区切りでしかありません。現在は第2章として、新しいホテルブランドを構築し、開業させるという取り組みをはじめています。ゼロからスタートする力はまだまだだと思っていますし、そのためにはもっとブランド力を高めていかなければいけませんので、「これから」ですね。

「老舗は常に新しい」を胸に目指す、100年企業

塩川:今後の展望についてもお伺いしたいのですが、会社としてどのような展開を考えていらっしゃるのでしょうか。

鬼怒川金谷ホテル鬼怒川金谷ホテル

金谷:まず、リゾート経営は主軸としていきたいですね。2020年までに関東近県であと200室を作っていきたいと考えています。また、現在は東京を中心にショコラトリー「JOHN
KANAYA」を展開していますが、チョコレートを切り口にした物販のプロフェッショナルな会社になっていきたいとも思っています。その後はバーや飲食店の展開も構想としては持っています。さまざまな形で私どものブランドを発信し、触れていただくことが大切だと考えています。

塩川:ショコラトリー「JOHN KANAYA」のお話がありましたが、ブランドパーソナリティとされているおじいさま、ジョン金谷鮮治氏についてはどんな思いがありますか?

金谷:祖父は私が4歳のころに亡くなっていますが、立教大学の観光学科、ホテルニュージャパン、札幌グランドホテルを興すのを手伝っていた人物で、パイオニア精神が強い人だったと思っています。私が小さい頃、足の形が悪くなるからと編上げのブーツしか履かせてくれなかったなど、とてもおもしろいエピソードを持つ人でもありました。また、私が生まれたときにはモーニングにシャッポ-をかぶって病院に駆けつけ、英語で「Nice to
meet you, How do you do? Shake hand」と語りかけたそうですので、今いたら本当に楽しいだろうなと思いますね。

鬼怒川金谷ホテル

塩川:「金谷ブランド」の展開には、とても素敵だったおじいさまを忘れてほしくない、という気持ちもあるのではないでしょうか。

金谷:鬼怒川金谷ホテルのダイニングには「ジョンカナヤ」と名がついていますが、鬼怒川金谷ホテルというブランドの中にジョンカナヤがWブランドとして存在するのは、まさに「忘れてほしくない」という気持ちからです。ブランドパーソナリティとしての「ジョン金谷鮮治」という人の雰囲気をつくることは、私たちにしかできないことです。それを社員間でも共有していきたいですね。そのほかにも、祖父が存命の当時はジョニーウォーカー専門のバーを運営していたなど、まだまだ私たちが発信しきれていない様々なエピソードもあります。それをストーリーにして新しい形でみなさんにお伝えしていきたいと思っています。

塩川:それらを踏まえて、今後はどこを目標に進んでいかれるのでしょうか。

鬼怒川金谷ホテル

金谷:会社自体は今年で85周年になるのですが、現在は「100年企業」を目指して、「老舗は常に新しい」を社是に掲げ、クレドとして「伝統とは革新の連続で作られる」、「真義は利なり」、「誠心誠意」といった言葉を社員全員で共有しています。そして、100年企業になる2031年、今から15年後にどういう企業になっているかといえば、旅館業はもっと変わっているだろうと思います。私たちの業界の常識という枠を超えていかないと続かないのではないかなと思いますね。

塩川:お客様との関わりに関しては、業界の常識にとらわれずに100年続く会社をやっていきたいということですね。

金谷:はい。事業再生に入ったときに一度は会社がなくなりかけていたわけです。私たちが行っていくことは、これからの15年を社員とともにしっかりと形づくることだと思っています。

塩川:おじいさまのパイオニア精神を受け継ぎ、「金谷ブランド」を支えていらっしゃる姿勢は、大変興味深いものでした。本日はありがとうございました。

鬼怒川金谷ホテル

写真:田中 和広 / 文:宮本 とも子

金谷ホテル観光株式会社 代表取締役社長 金谷譲児

金谷ホテル観光株式会社 代表取締役社長

金谷譲児

1973年生まれ。大学時代をスイス・アメリカで過ごし、THE KITANO HOTEL NEW YORKにてホテル・マネジメントを学ぶ。2001年に帰国し金谷ホテル観光株式会社に入社。2008年に鬼怒川金谷ホテルの総支配人に就任後、2011年3月より現職。

鬼怒川金谷ホテル

鬼怒川金谷ホテル

栃木県 > 鬼怒川・川治・湯西川・川俣

日光の豊かな緑に囲まれてたたずむ、鬼怒川金谷ホテル。東洋と西洋、伝統とモダンが融合する、“渓谷の別荘”です。