2017.02.20
目次
第26回 住んでよし、働いてよし、訪れてよしの「ふるさと」を目指して。御客屋の社長が語るこれからの黒川温泉
歴史の宿 御客屋 七代目御客番 北里 有紀
老舗旅館「歴史の宿 御客屋」。黒川温泉観光旅館協同組合の代表理事も務める七代目御客番に、熊本地震の経験から見えてきた黒川温泉の未来について語っていただきました。
ゲスト
歴史の宿 御客屋 七代目御客番
北里 有紀
熊本県阿蘇郡南小国町出身、御客屋の七代目御客番。史上最年少、女性初の黒川温泉観光旅館協同組合代表理事を務める。また、2013年に立ち上げた「NPO法人 南小国まちづくり研究会 みなりんく」では代表理事を務め、地域×企業等の新しい共創プロジェクトに取り組んでいる。
インタビュアー
株式会社 Loco Partners 代表取締役副社長
塩川 一樹
1979年生まれ、立命館大学経済学部卒。株式会社ジェイティービーを経て、株式会社リクルートへ中途入社。旅行事業部にて、首都圏・伊豆・信州エリア責任者を歴任し約2,000施設以上の担当を歴任。2012年7月より株式会社Loco Partners取締役に就任。
仲間とともに邁進した、「黒川バブル期」
塩川:まずは、北里さんのこれまでの歩みをお聞かせください。
北里:私は生まれも育ちもこの黒川温泉ですので、この景観の中で野山を駆け巡ったり、川で泳いだり、そういう幼少期を過ごしました。地元の中学校を卒業してからは市外の高校に進学しまして、高校を卒業するまではずっとさまざまなスポーツをしていましたね。ゴルフなどの個人プレーは苦手で、チームワークを要求されるスポーツばかり。協力して何かをするというチームプレーが大好きなのです。
塩川:当時、北里さんは家業である御客屋をどのように見ていらっしゃったのでしょうか。
北里:私が小学生の頃までは宴会旅館で、カラオケが子守唄だったり、酔っぱらいのお客さまがいたり、父は遅くまで送迎、母もお客さまの接待をするなど、両親とも忙しかったのです。だから、実は旅館という仕事が好きではありませんでしたね。いつか自分が旅館を継ぐという意識もなく、祖父に連れられて山や田んぼ、畑の手入れをする仕事の方が大好きでした。ときには隣の旅館に行ってお風呂に入れていただいたり、厨房で何かを食べさせてもらったり、私は小さい頃から、地域全体に育てられたなと思っています。
塩川:高校を卒業されたあと、黒川温泉へ戻って来られたのはいつだったのですか?
北里:21歳のときにこちらに戻ってきたのですが、それは留学をしたいという思いからだったのですね。家にいれば生活費がかからないので、お金を貯めて海外に行くぞと思っていました。私を育ててくれた祖父が「寂しいから帰ってこい」と言うのもありましたね。その後、黒川の青年部に入り活動する中で、UターンやIターンで同級生たちが帰ってきたのです。そうしますと、その仲間たちと地域活動をする方が留学をするよりも面白くなってきたのですね。ちょうどその頃にインターネット予約が登場し、予約自体が大きく変わり始めました。そこで旅館を業務としてしっかりやろうということで、20代後半で御客屋の役員になりました。
塩川:地元に戻って青年部に入られてから現在までの黒川温泉の歩みを振り返って、ターニングポイントとなるようなできごとはありましたか?
北里:振り返ってみると、のめり込んで邁進してというような20年近くでした。何より、黒川温泉に帰ってきてから、平成13〜15年が空前絶後の黒川バブルと言われる3年間だったのです。数字として、なにもかもが過去最高だったのが平成14年ですね。当時はいつ温泉街を見ても人があふれるように歩いていらっしゃって、お泊りも常に満室、おそらく相当恐ろしいような稼働率で全体が回っていたという3年間だったのです。あとから考えてみればというところが大きいのですけれども、黒川温泉は「女性の方が1人で泊まりに来てもグループで泊まりに来ても安心な温泉地」であることが根付いてきたことが、高い稼働率の要因として大きかったのではないかと思いますね。もうひとつ、入湯手形の取り組みもお客さまからご支持いただきました。
塩川:今でこそソーシャルメディアがありますけれども、当時は口コミなどで拡散していったことも大きかったのでしょうね。そうした高い稼働率が2〜3年ほど続いたのですね。
北里:そうですね。その後、平成15年に当時の旅館組合の判断で、ツアーのお客さまのまとめ売りを一方的にご遠慮いただく施策を打ったのです。それに加え、今はなくなったホテルなのですが、ハンセン病のお客さまの宿泊拒否問題がありました。それが全国に拡散しまして、宿泊控えが起きたのですね。そこから、数字としては全盛期より3割ほど減ってしまったのです。
塩川:右肩上がりだったものが下降してしまったのですね。
北里:当時は入湯手形が22万枚近く売れており、事業費は右肩上がりだったのですが、その数のお客さまを本当に受け入れられるかどうかが問題となりました。来客数がお風呂のキャパシティを超え、「黒川に行っても温泉に入れない」という悪い評判を撒き散らすことになってしまったのです。右肩上がりを続けるには規模を拡大し続けなければいけません。しかし、我々は規模の拡大よりも質を磨く方に転化していったのです。その結果、入湯手形の数字は落ちましたけれども、当時の執行部や組合員のメンバーはそのことも前もって考慮しながら進んでいたのではないですかね。
地域全体で稼いでいく「黒川一旅館」の理念
塩川:質を上げることにシフトする過程で見えてきた成功事例や課題点はあったのでしょうか。
北里:厳しい言い方になるかも知れないのですけれども、当時は惰性の力で物事が進んでいた期間だったのではないかと思います。その頃は父が組合に出席していたのですが、中にいる人間としては「どういう方向性で進んでいくのだろうか」ということが見えなかったのです。
塩川:それが平成12〜15年の頃の流れで、そこからの後半10年にかけては、それまでと異なるフェーズに入っていくのでしょうか?
北里:フェーズとしては国際化、インバウンド需要が大きいですね。8〜9年前に韓国からのお客さまの波が来ました。最初は「うちは海外のお客さまを入れなくてもいい」と言っていた旅館が、数年でどうしても受け入れざるを得ない状況になっていったのですね。予約の窓口が多様化し、対応せざるを得なくなっていったのです。
塩川:そこでまた黒川温泉のあり方がまた議論されてくるのですね。この10年、20年を考えると、まず国内の中でものすごく盛り上がった時期があり、そこから海外のお客さまがいらっしゃるようになり、どう進化していくかを絶えず考えざるを得ないような状況だったのではないでしょうか。
北里:そうですね。東京オリンピックを控えインバウンド政策が語られるようになりました。そこでは日本人の人口が減るからインバウンドのお客さまを大勢呼び込もうと言われますが、私は逆に、全体的なお客様の数は取りに行かなくてはいけませんが、黒川温泉はあくまで国内外問わず個人のお客さまにご予約いただけるように、質を担保して付加価値を提供していきたいと考えています。それは旅館業界の人間だけでは成し遂げられませんので、地域全体と稼いでいくというふうにならなければいけませんね。
塩川:黒川温泉では700名前後のスタッフで30万人くらいのお客さまを受け入れられていると伺っています。そうすると、宿泊施設のもつ歴史と同様に、お客さまにも何世代にも渡ってお越しいただけるようなまちづくりをしなければいけないという危機感や、未来感を持ち合わせていらっしゃるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
北里:御客屋は私で7代目なのですが、今の年頃になってようやく、父母が旅館を残してくれたありがたみや、地域の先輩方が守ってきてくださったつながりを感じるようになりました。「黒川一旅館」(黒川温泉全体が一つの旅館であるという考え方)という地域理念のもとで行動を起こしてくれたのは、私たちの先代である世代です。私たちの世代はその具体例をつくっていくことが役目だと考えています。地震(2016年4月14
日に発生した熊本地震)のあとにいろいろな物事を考えて整理しているのですけれども、「黒川一旅館」から「黒川一ふるさと」へ、つまりお客さまも含めて地域内外のさまざまな方々が黒川温泉の未来に関わるというプロジェクトを起こしていこうかなと考えています。
熊本地震に気付かされたこと
塩川:熊本地震をきっかけに、黒川温泉のあり方についても思うところがあったのではないでしょうか。
北里:そうですね。今回の震災の特徴として、余震の回数が多いことがありました。4月14日に前震があり、16日に本震があった際にはまだ通常の3〜4割の宿泊客の方々がいらっしゃったのですが、夜中に地震が発生したときには避難所で一夜を過ごしたのですよ。旅館では最初の数日間は周辺の情報を含めて、どのような状態になっているのか、全体の被害はどうなのかなど情報収集に明け暮れましたね。
塩川:震災当時、御客屋の代表でありながら地区の組合長という立場でもあったのですね。
北里:はい。震災から1週間が経過した日曜日に緊急の全体会を招集しまして、黒川温泉の旅館全軒に揃っていただいて、そこで直接それぞれの社長さんや責任者などすべての方に宿の被害状況、見通しをご報告いただきました。それから、営業可能なお風呂が30軒中16軒ほど確認できたので、被災された方々のお風呂の受け入れだけでもしようというところで決議を取りまとめました。また、ゴールデンウィークが迫っておりましたので、これ以上の観光被害が広がらないよう、正確な情報を発信していくことに努めました。
塩川:黒川温泉には観光でいらっしゃるお客さまがメインですけれども、この地域を社会インフラとして見たときに、自分たちは何をすべきかということを考えるきっかけになったのではないでしょうか。
北里:はい。本震があった16日の避難の際には、旅館には寝具も食べ物もありますし、板場さんもいますので、食材を旅館ごとに持ち寄って大きな鍋で炊き出しをしました。今まで有事の際の対応をしたことがなかったので、いい勉強になりましたね。
塩川:その危機を乗り越えたところに風評被害があり、お客さまが安心感を持ってお越しいただけるまでには時間がかかったと思うのですが、それまでの期間はどのような過ごし方をされたのでしょうか。
北里:正直なところ、7月1日からの九州復興割が大いなる後押しになったことは事実です。それまでの期間はどうあがいてもどう動き回っても、お客さまが戻ってこないということを経験しました。もう1つは、メディアの皆さま方から「被害はどうでしたか」という視点でご取材を受けることが多かったのですね。生命のために正しい情報は必要なのですが、いち早く元気な情報、前を向いた情報を発信するように、私たちも応対を変えていきました。
塩川:そうした前向きな情報発信、復興割の後押しもあり、少しずつお客さまが戻って来られたのですね。
北里:熊本県内で主に被害が大きかった場所、少なかった場所、いろいろあるのですけれども、親戚や友だちでしたり近い関係の人たちが避難所にいる状況だったのですね。人間の行動を抑制するのは罪と恥というふうに聞いたことがありますが、やはり罪悪感というものはありまして、「黒川温泉は大丈夫です、元気です」ということを発していいものかどうか、1〜2ヶ月はとても葛藤がありましたね。
塩川:もっと苦労している人がたくさんいらっしゃる中で、黒川温泉から声を発信するのはどうかという葛藤があったのですね。
北里:そうですね。しかし、熊本城の姿もそうですし、阿蘇神社もああした形になりましたけれども、人が来てこの姿を見ていただくということには可能性があると思いましたので、先頭に立ってやらなくてはいけないという気持ちになりました。
塩川:今できることをやろうという当事者意識が、危機のときだからこそ前面に表れたのかもしれませんね。
北里:4月に熊本地震が起き、その地震で揺れた場所が6月の豪雨で何ヶ所か土砂崩れに遭い、9月には阿蘇山が久しぶりに大規模な噴火をしました。この地域の自然災害はなくなりません。これからも起こり続けるし、そのために強くなったり学んでいかなくてはならないと感じました。どこの地域でもおそらく地震のご不安を抱えていらっしゃるし、人間は時々おごってしまって、自然をコントロールできるという感覚になってしまうではないですか。その原点に私たちは立ち返ったのだという思いですね。自然の恵みの1つが温泉ですので、表裏一体なのです。
塩川:自分たちが持っている山や温泉などの財産、身近な仲間といったものはそうした尊い縁で結ばれていると感じる機会だったのですね。そうなると、お客さまに対しても、あらためて違った感覚を持たれたのではないですか?
北里:地震の直後はリピーターのお客さまに本当に支えていただきましたね。ご連絡もたくさんいただきましたし、実際に泊まりに来ていただいた方々の存在がありがたかったです。そして復興割が始まってからは地元熊本のお客さまの割合がぐんと増えました。近年、地元のお客さまから、黒川は高い、予約が取れないと敬遠されるきらいが出ていたのですよ。それが、こういう機会だから久しぶりに来てみたというお声をたくさんいただきまして、それはそれで1つ地震がもたらしてくれたものでした。
目指すは「黒川一ふるさと」
北里:熊本地震によって、自分たちの地盤がぐらつきました。それから、「住んでよし、訪れてよし」の策を優先的に、両輪ですけれどもやっていこうと思っています。
塩川:そこにいる方が、居場所があって、心地よくて、お互いを尊敬し合えるような場所であり続けるということですね。
北里:まずいちばん大事だなと思うのは、業界全体での働き手不足の問題です。黒川温泉では、立地として「暮らす」と「働く」が一緒になるのですよ。例えば東京にいらっしゃったら仕事でいろいろなことがあっても、通勤の時間中に切り替えることができます。しかし黒川では、この中で暮らして働いてということが一緒に成り立たないといけません。旅館や組合というのはお客さまに来ていただくということに注力しがちですけれども、やはり「住んでよし、働いてよし」が勝らないと、「訪れてよし」はありません。
塩川:居心地のいい空間を共同体として一緒につくりあげていく、そういうDNAが北里さんの中にあるのだなとお聞きしていて思いますね。
北里:運命共同体で生きていくというのはどういうことだろう、というのをずっと探しているような気がしています。私が黒川温泉に帰ってくることを選択したのは、おぼろげに覚えている祖父や両親の背中があったからだと思っていますが、自分がその立場になってみて感じるのは、本当の成功とは、私たちが四半世紀走り続けたあとにこの仕事を継いでくれる、そういう人間がいる、仕事が遺るということがゴールになることではないかと思います。
塩川:利益の本質とは、一時的ではなく永続的に必要とされることではないかなと思うのですが、有限である命が次の命に継承され続ける、そしていろいろな人脈をつむいで行ける、語り継いでいけるというのが一番の成功かもしれませんね。共同体で頑張っていこうとする姿に、多くの方が共感されるのではないでしょうか。
北里:まさにこれからですね。黒川にしかできないことを進めていこうと思っているところで、先ほど申し上げた「黒川一ふるさと」や、「第2町民」の仕組みを確立していこうというふうに思っています。
塩川:「黒川一ふるさと」の意味は、黒川の「第2町民」を増やす、関わりたい人を増やすということですよね。
北里:究極のリピーターづくりとはなんだろうと考えたときに、今までの観光業界ではリピーターのお客さまとは主従の関係になりやすいということに思い至りました。例えば団塊の世代の旅行というのはあと10年したらほとんど動かれなくなりますよね。観光業界はそこに照準を合わせていろいろな商品造成をしてきたところもあるので、次のターゲットを考えなくてはいけません。それが世界のミレニアム世代です。彼ら、彼女らは共感やストーリーをとても大事にされます。世界のスタンダードはB&Bですので、1泊2食のパッケージスタイルが難しい。そこでこの街の中で必要な機能はなにかを考えると、自分たちだけでやるのではなく「第2町民」の方と一緒にお仕事できることもあるかもしれませんよね。この黒川を、自分たちも住みよく、訪れてもよい場所に構築することを、いろいろな方々との関係性の中でやっていこうというのが「第2町民」の構想です。
塩川:これは新しく、貴重な世界観だという気がします。インフラをつくって解決するものではなく、ものとお金だけではない、「人」という部分で一番むずかしい領域かもしれませんね。
北里:「第2町民」を実行するには必ず何かしらの仕組み化は必要だと考えていまして、3パターンにセグメントしました。まずは、エントリーの方。黒川を知っている、街を歩いたことがあるというお客さまですね。次は、何度か泊まりに来ていただいているファンの方。その上に、親善大使になっていただけるくらいの関係性のあるアンバサダーの方。そして、このアンバサダーの方々を招待して、地元の人間しか知らないとっておきの楽しみ方を体験してもらうイベントなどを試したいと考えています。例えば、昨年9月に炭窯事業を行ったのですが、火入れをしているうちに日が沈むと星がとてもキレイで、秋のグランピングに最適だと感じました。こうした体験をしていただくことで、黒川のよさをそれぞれ発信していただければと思います。新しい取り組みを広げていくためにも観光業を仕事にするメンバーが出てこないとうまくいきませんし、そのためにきちんと対価の質を上げて、稼がなければ続かないと考えています。
塩川:どういうお客さまがいらっしゃって、どういう方に支持されていくかというのを考えていらっしゃるのですね。
北里:もともと黒川温泉は半農半宿の集まりでしたので、それがベースの豊かさであり、宿の役割だったのですよ。田んぼで米をつくり、畑で野菜をつくり、山林の手入れをきちんとして、その資源が持つ豊かさを最大限みなさまと享受するということが、お客さまに対する私たちの役割ではないかなと思います。
塩川:東京にいると、そういう風景は遠い存在です。まさに心のふるさととしてコミュニティの外の方にも残していくという位置づけになっていくのかなと思いますね。
北里:私たちのコンセプトは一貫して変わらず、黒川全体で都市と対極にある究極の田舎をつくり続けていくのですよね。その中で、私たち自身のライフスタイルの都市化も課題になっています。例えば、経済的に力を持てばお金の力である程度なんでも解決できてしまいます。しかし、きちんと取捨選択をしていかないと、便利になる一方で風情や文化を簡単に失ってしまうことになりますね。
塩川:確かに究極の田舎というものは、どんどん価値が高まっていきそうです。価値に気づける人がいなくなってしまうと、紡がれてきた伝統や文化が今以上のスピードで失われていく可能性もありますよね。
北里:黒川温泉には、競争と共創の2つ姿勢があるのですよ。これをフィフティ・フィフティでやろうというのが先代のときからの教えです。具体的には「個は競う。しかし、全体は一緒にやる。」ということの実践だと考えています。個々の旅館のしつらえ、館内・部屋・風呂などの設備、料理の素材や献立、人材育成やおもてなしの質の向上など、これらは旅館ごとに独自の提案をみがき、互いに刺激し合いながら競うということは当たり前の努力だと捉えています。一方で、黒川温泉という地域全体のことは、共に対話し、共に行動する。この2つの姿勢を大事にして、今後もチャレンジし続けたいと思っています。
塩川:
旅館としてはお互いに切磋琢磨しながら、地域としては団結して新しいものをつくっていく。その2つの姿勢の両輪で黒川温泉を回していくということですね。ますます黒川温泉のファンになりました。貴重な時間をありがとうございました。
写真:中島 舞 / 文:宮本 とも子
歴史の宿 御客屋 七代目御客番
北里 有紀
熊本県阿蘇郡南小国町出身。21歳で実家の御客屋での勤務を開始し、黒川温泉 青年部に入部。その後、御客屋の七代目御客番として青年部長などを歴任。現在は史上最年少、女性初の黒川温泉観光旅館協同組合代表理事を務める。また、2013年に仲間と立ち上げた「NPO法人 南小国まちづくり研究会 みなりんく」では代表理事を務め、地域×企業等の新しい共創プロジェクトに取り組んでいる。
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