15万坪もの敷地をもつ国登録記念物の御船山楽園。その麓で御宿 竹林亭の代表が作り上げる唯一無二の空間について、革新的な取り組みやその想いを語っていただきました。
ゲスト
御宿 竹林亭 代表
小原 嘉久
1975年佐賀県生まれ。大学卒業後、ホテルスクールを経て、旅行会社に入社。2003年(株)御船山観光ホテルに入社。2007年より代表に就任(御宿 竹林亭・御船山観光ホテル・御船山楽園)。現在に至る。
インタビュアー
株式会社 Loco Partners 代表取締役副社長
塩川 一樹
1979年生まれ、立命館大学経済学部卒。株式会社ジェイティービーを経て、株式会社リクルートへ中途入社。旅行事業部にて、首都圏・伊豆・信州エリア責任者を歴任し約2,000施設以上の担当を歴任。2012年7月より株式会社Loco Partners取締役に就任。
DJから宿屋業へ――音楽と旅館の「共通点」
塩川:はじめに、小原さんのこれまでのお話をお聞きしたいと思います。
小原:私の祖父が、嬉野にあります和多屋別荘を購入したことで家業としての旅館業がスタートしました。そこで父が社長をしていたのですが、当時売りに出ていた御船山を父が購入し、武雄に移り住んだところで私が生まれたのです。そのときは御船山観光ホテルと御船山楽園を運営していたのですが、幼少の頃からずっと御船山の庭が遊び場のような感じでした。生い茂る夏草の香りで夏を、金木犀の香りで秋を感じるなど、においと季節が連動する感覚は身近に豊かな自然があったからインプットされていたのだと思います。今思えば、それが私自信の感性や美意識などにとても影響していたのだと思いますね。
塩川:四季の移り変わりを身近に感じていたのですね。その後はどうされたのですか?
小原:高校時代までは武雄にいまして、大学で福岡へ行きました。そこで音楽と出会ったのです。クラブに行ってはじめは聞く側だったのですが、そのうちDJをするようになりました。大学卒業後は東京YMCA国際ホテル専門学校に進学し、卒業後は父に「旅行会社で観光の勉強をしたらどうか?」と勧められ、東京の旅行会社に就職しました。しかし、私には合いませんでしたね。朝から晩まで働いて、終電にも乗れず、往復のタクシー代を払うために働いているような日々でした。そんな中、新宿にあるリキッドルームというクラブに有名なDJが毎週海外からきていて、週末にそこに行くことで自分を取り戻すような日々を送っていました。そこからだんだん音楽を自分の生業にしたいという気持ちが強くなり、旅行会社を1年で辞めて音楽の道に進みました。
塩川:大学時代に音楽と出会い、社会人になられてからは音楽が自分を取り戻す場所になったのですね。旅行会社を退職されたあとはどうされたのですか?
小原:そこからは、PAのアルバイトをしながらDJイベントを仲間と主催したり、自分で作曲した曲を音楽レーベルに送ったりしていました。そうしているうちに、父が持病の悪化から透析をはじめたのです。当時、会社の業績が落ち込んでいて、手伝いに戻って来てほしいと父から要望があり、28歳で武雄に戻って来ました。当時は自分が社長になるとは思っていなかったので、音楽活動と旅館の手伝いの両方をしようと考えていたのです。
塩川:28歳でこちらへ戻られて、最初は音楽に重きを置いていたものが、ここから旅館業にのめり込んでいくきっかけがあったのでしょうか。
小原:転換点は2つありました。1つは、当時旅館の業績が大きく傾いていたことです。そしてもう1つが、旅館と音楽との関連性です。旅館の料理や庭、建築、そしてサービスなどは「組み合わせ」と「バランス」が大切だと思ったのです。曲も同じように、ベースやドラム、シンセサイザーなどの楽器を組み合わせて、バランスを保ちながら作っていく作業なのですが、そうした点が旅館と音楽に共通しているなと思ったのです。また、DJはその場の空気を読んで盛り上げなければいけません。お客さまと自分の相性が合わないと1時間でも苦痛なわけですよ。流行りの曲ばかりを流しても個性がありませんので、DJというのはその場の空気を読みながら、自分の個性を出していく必要があります。それを長い時間軸で見ていくと、旅館の365日に通ずるのかもしれないと思ったのです。最初はよく分からなかった旅館業が、実は音楽と近くてクリエイティブなものと分かった瞬間に、すごくのめり込んでいったのです。そして32歳で代表になりました。
塩川:音楽と旅館経営はともに、お互いの理解がなければできないというところに通ずるわけですね。目の前のお客さまのことを理解しようとしなければ一方通行になってしまいますよね。
小原:そうですよね。だからその場を読む、空気を読む、リアルタイムの関係性の中で自分たちの個性を出しながら、お客様の気持ちも汲んで、媚びず驕らず「主客一如」の関係を築いていきたいですね。
「庭屋一如」の空間を作り込む
塩川:小原さんは、代表になられたときの心境は覚えていらっしゃいますか。
小原:当時の心境は、「この危機的状況をなんとか打開しなければ」という思いと、「御船山という素晴らしい資産があるから大丈夫」という思いが激しく交錯していました。当時は借り入れが売上の5倍近くあり、その状況で継いだので自己破産も覚悟していました。お金は使えないので、まず人の改革から着手しました。組織体制を整えるために、従業員全員にこれからの会社の方向性に賛同できるか否かを確認し、「個々のお客様からの評価を上げ、ファンになってもらわないと生き残れない。ホスピタリティーを高め、サービススキルを今すぐに磨き上げてほしい」と伝えました。しかし、昔から団体旅行のお客さまを効率よく捌くのが仕事だと思っていた方々に、お客様1人1人に対しての細やかなサービスを求めても、なかなか変わってくれません。結果、辞めていく人と新しく入ってくる人が入れ替わっていき、社員と一緒に自分たちが進みたい方向を模索できたことは良かったと思います。
塩川:人の改革からはじめられて、それからどのように旅館は変わっていったのでしょうか。
小原:当時はちょうどインターネットが普及してきたタイミングでした。当旅館でも自社サイトはあったのですが、あの当時は予約も1人1人メールでやり取りをしていましたのでとても大変でした。そこにオンラインの宿泊予約サイトなどが登場し、タイムリーかつリアルタイムにつくりこんだプランを販売していくことで売上が立てるようになりました。人が変わってサービスがよくなり、インターネットという新しいインフラを早い段階で活用した集客が功を奏しました。
塩川:そこから道筋が見えてきたのですね。そこでやはり、売りにするのは御船山だということで、「庭屋一如」のコンセプトに行き着いたのでしょうか。
小原:そうですね。私が28歳で戻ってきたときに、やはりこのお庭は世界に通じるすごいお庭であるし、御船山のツツジの風景は万人も圧倒する美しさであり存在感があるので、もっと多くのお客様にきてもらえる空間のはずだと思いました。当時はまだ年間入園者数は1万人ほどで、メインである春のサクラ、ツツジの時期以外はほぼ閑散期でした。それをもっと世の中に知ってもらいたいし、会社再生の切り札にしたいという気持ちがありまして、例えば花まつり、紅葉まつりやライトアップのイベントの前には、自作の企画書やプレスリリース、CD画像集をつくり、テレビ局やラジオ局、雑誌社への取材や掲載のお願いに奔走しました。そうした取り組みの成果もあって、徐々に集客数が増え、近年では年間25万人の入園者で賑わうまでになりました。御船山やその麓に広がる美しいお庭がなければ会社を継いでいなかったかもしれないですね。
塩川:ここに鎮座している御船山を見上げて活かし方を考えたのですね。御船山を主体とした「庭屋一如」のコンセプトについてあらためて教えていただけますか。
小原:「庭屋一如」とは、庭(自然)と建物の調和がとれて一体になるように設計された空間のことです。例えば20世紀を代表する建築家のジェフリー・バワの建築も「庭屋一如」だと思うのです。アマンリゾーツもまたしかり。私もバリのアマンダリに行きましたが、本当に自然の中に佇んでいて、一体感を感じるのです。人の営みは自然とは切り離せませんし、自然の中で佇んでいるだけで心地よさを感じるときがありますよね。その感覚をできるだけ広大なスケールで、御船山の15万坪の空間でお客様に感じていただけたらと思います。
塩川:そこに風が吹いたり波があったり、木の揺れがあったり、そういうものを含めて滞在を楽しんでいただくということですね。私も、結局「自然の心地よさには勝てない」ということを思います。そういう境地をいかに建物としてつくっていくか、どう追求していくかですね。
小原:はい、御船山楽園は2017年で開園174年を迎えるのですが、今に至るその数百年の年月の中で、蓄積された自然や人の営み、歴史・文化の情報があることはすごく贅沢だと思います。そういう空間に、新たに何かを足したり引いたりしながら、より多層的な空間にしていければと思っています。例えば、竹林亭の建築様式である数寄屋造りも、いろいろな人が様々な模索をしながら数百年かけて様式美を考えてきたわけです。当時の日本人の身長もあったと思いますが、天井が低い数寄屋建築はその縦と横の比率が居心地を左右すると考えられ、今日まで受け継がれてきたのかもしれません。そうしたことを学び、汲みながら、変えてよいものと変えてはいけないものを見極めて、伝統と革新を両立していけたらと思います。
塩川:映り込んでいる葉の動きですとか、ふつうの旅館さんではここまで考えないですね。
小原:例えば窓ひとつにしても、空間を切り取ったようにしたかったですね。窓の奥に笹があって、桜の枝が横に入っている。春に、桜が咲くととてもキレイだろうなというイメージでつくりました。自然の豊かさを切り取るということは、屋内だからできることでもありますし、制約のある中で豊かなものを表現することは、日本人が古来から得意とし、大切にしてきた精神ですよね。
過去・現在・未来の融合で生みだす新しい価値
塩川:御船山楽園では、アート集団であるチームラボとコラボレーションもしていますよね。小原さんの美的な感覚の根底には、幼少の頃からの自然体験が影響しているようですが、チームラボとの取組にもそういったことがあらわれているのでしょうか。
小原:そうですね。チームラボの作品を好きになったきっかけは、台湾で展示されていた3Dホログラムによるアート作品を見たことでした。「秩序はなくともピースは成り立つ」という作品で、古人やウサギ、カエルが踊っているところに鑑賞者が近づくと、それに気付き踊りをやめたり、リアクションをしたりするインタラクティブな作品でした。その作品を見て、鳥獣戯画のような世界観を御船山で表現したいと思いました。3Dホログラムで立体になる2次元の蒔絵の世界や鳥獣を日本庭園に表現することで、子供も大人も楽しめるアート空間になるのではないかと考えたのです。ただ、屋外でそれを表現するのは今の技術ではなかなか難しく、実現には至りませんでしたが、自然等の物理空間の中に何かしら新しいものが入っていく、投影されるものには引き続き興味がありました。
塩川:チームラボには最先端のテクノロジーがあります。そこで見えてくる可能性を感じていらっしゃるのでしょうか。
小原:私たちが得意とするところは、歴史や文化、伝統などの過去を継承し、今の時代に合わせて必要があれば変えていくことです。「過去」と「現在」に重きが置かれますが、さらに「未来」に対して何かしらアプローチすることができたら、それはまた今までにない新しいなにかを表現することが出来るのではないかという期待があるのです。
塩川:「庭屋一如」の磨き上げを進める中でチームラボとの出会いがあり、小原さんの描く新しい「庭屋一如」の世界をつくりあげていくためにコラボレーションをはじめたのですね。
小原:以前テレビ番組でチームラボの猪子さん(チームラボの代表取締役)に、竹林亭の魅力を「時代時代の本当に良いものが積み重なっている上に、手探りで現代の良いものを加え更新しているところが贅沢で刺激的」と語っていただいたことがあります。また、2016年の御船山でのチームラボのアート作品についてテレビ取材を受けた猪子さんが、「日本には素晴らしい自然や歴史をもつ場所、特異な文化を残す場所が多数ある。それらは、深く知れば非常に魅力的である一方、ある人にとっては少し分かりにくい側面も持つ。しかし、デジタルアートがその場所の特性を生かし、新たな価値を付加し拡張することで、その空間をより魅了するものにできるかもしれないし、できたらいいなと思っている」と語ってくれていました。いま御船山でチームラボと一緒にやろうとしていることは、まさにそういうことだと思います。
塩川:テクノロジーを駆使して多重的な空間を創り出してきたチームラボと、そこに旅館の可能性や小原さんの思いが合致して、新たな取り組みが生まれたのですね。
小原:チームラボは、先人の表現の積み上げの上に今があるという点を大切にしているので、相性はきっといいと思うのです。2016年の夏に2回目のチームラボと組んだ「竹あかり」のイベントを開催し、池全面をプロジェクションしたうえで庭全体を演出しました。竹灯篭があって、星があって月があって。それらを高台から見えるようにしたのです。その世界観は、星をも取り込んだアートですね。それを鑑賞したみなさまが、こちらが意図する構図でSNSにアップしてくださっているのを見ると、きちんとこちらの想いが伝わっているのだなと感じ、嬉しくなりました。このイベントはSNSでの投稿と拡散の効果もあり、日を増すごとに入園者数が増えて、2ヶ月の開催期間で延べ5万人のお客様にご来園いただきました。
塩川:そのプロジェクションマッピングで困難なことはありましたか?
小原::困難は常に起こります。自然のため地形や対象物が複雑で、屋内でやるのとはまるで様子が違います。プロジェクターの照度やフォーカスなどの調整で、試行錯誤の連続でした。月の明るさも湖面に影響するので、映りのよい日とそうではない日があります。自然が相手なので、すべてをこちらでコントロールすることは出来ませんね。
塩川:御船山楽園の魅力を存分に活かした取組だったと思いますが、そもそもこの御船山楽園が設計された由来と、今に繋がる思いがあれば伺いたいと思います。
小原:御船山楽園は、鍋島茂義公という武雄領主が創設したお庭です。鍋島茂義公は非常に頭がよく、才能豊かな方だったようで、20代で佐賀藩の家老に抜擢されています。また、科学者、植物学者、絵師でもあり、「皆春斎」という称号まで持っていました。そういう方がつくったお庭ですので、もし茂義公が現代に生きていれば、きっと同じようにいろいろな取り組みを行っていたと思います。そういう意味で我々は、「Dear鍋島」という、鍋島藩や茂義公に対するリスペクトを抱えながら未来に進んでいきたいと思っています。
塩川:その歴史、文化、伝統が残されているということを、小原さんはこの地で感じてきたわけですね。
小原:
庭もおそらく茂義公がこだわりを持ってつくったのだと思います。ですから私の解釈では、作庭において御船山は、「山」ではなく「景石」として捉えていたのではないかなと思うのです。いわゆる禅庭園的なところで言うと石が山で、苔が島で、玉砂利が海なのですよね。御船山を石に例えて、それに対する造形をしたとすると、すごいランドスケープではないですか。庭全体に勾配があり、庭園の下部からも上部からも御船山がシンボリックに見えるように計算され作られているのです。庭園下部では、古池と紅葉の背景としての御船山、登っていくと見渡す限りのツツジの背景として御船山があって、いろいろな視点で山を見せているのです。私の知る限り、こんなに立体的な庭の構造は他にないと思います。
塩川:自然との調和が偶然にも重なっているというような光景は、まさに総合芸術ですね。「“四季を旅する国に出会う”喜びを」というのが1つのコンセプトで、このお庭でそれをすべて体験できるというのが価値としては素晴らしいと思います。こういうスケール感は海外に行かなければ見つからなさそうですね。
小原:ありがとうございます。それはやはり自然が表現してくれるからだと思います。四季の移ろいの中で宿もまた自然と移ろいでいく。お部屋から見える景色は春夏秋冬365日、刻々と変化し続けています。そのため、竹林亭の客室のしつらえは出来るだけシンプルに、窓越しの自然を邪魔しないように気を配っています。また、窓越しに見る景色はすべて竹林亭の敷地なので、そういう意味でも自然景観が守られています。日本は国土が狭くいろいろと制約もあるので、海外の広大で自然あふれるリゾートのような場所は少ないかもしれないですね。竹林亭は御船山楽園内にあり、御船山楽園が鍋島藩の領地だったということで、その広大な敷地を現在まで遺してくれいることに大変感謝しています。
唯一無二の世界観を実現するトライ&エラー
塩川:壮大なスケール感で未来をご覧になっていますが、今後はこの空間はどのようになっていくのでしょうか。
小原:少し先の未来は、テクノロジーの進歩によりAIやロボットなどが人の代わりに働くようになり、多くの業態で人は働かなくてもよくなるかもしれません。ベーシックインカムのような制度が国ごとに導入されていけば、人々は時間とお金に余裕を持てるようになり、余暇は主暇となり、より旅をするようにもなり得ます。また、テクノロジーの進歩は言語の壁を無くし、人々はマルチリンガルに世界中の人々とコミニュケーションできるようになるとも考えられます。そういう来たるべき未来に、できれば日本のこの地から、世界中の旅人に愛される、世界中の旅人の憩いの場となるような空間をつくっていけたらと思っています。
塩川:竹林亭の未来感としては憩いの場というのが1つテーマになっているのですね。
小原:はい。人はただ佇んでいるだけで心地よいほどの空間があれば、できるだけ長くその場にとどまっていたいと思うのではないでしょうか。そして、長くその場にとどまるためには泊まる場所が必要になります。また、その心地よさを持続するためには良いサービスや美味しい料理が必要だと思うのです。そういう見地から、私たちは結果として旅館を商い、庭園を商っているのだと考えたいのです。ただ佇んでいるだけで心地よい空間、御船山という「憩いの場」がそこにあるから。まだまだ道半ばで完成してはいないですが、そのような空間をつくっていきたいと思います。
塩川:竹林亭ではいろいろな構想をかたちにされたり、リニューアルをされていらっしゃるので、このあとどうなるのだろうという期待感が高まります。
小原:ミニマルやシンプルさというものは簡素で素敵ですが、一方で分かりにくかったり、伝わりにくかったりすることもあると思います。そのため、今後はそれらの意味を拡張したり、伝わりやすくしたりする手法に取り組んでいきたいと思います。もちろん今やっていることをテーマパーク化するつもりはありませんが、もう少し表現としてアグレッシブかつダイナミックに魅せていくのもいいのではないかと思います。また、世の中の美意識もそちらの方向に向かっていると思うのです。日本人の精神性や美徳感は残しながら、庭の世界観や宇宙観がもっと伝わるような、そういう意味での拡張性や柔軟性を持って宿づくりや庭づくりに取り組んでいきたいと思いますね。
塩川:単なるラグジュアリーな空間とは違う趣きを感じますね。
小原:そうですね。私たちも贅沢な空間創出という意識は持ちながらやっているのですけれども、やっていることはどれも現状維持、原状回復が前提なのです。ライトアップをしている照明を消せばあかりはなくなりますし、プロジェクターの電源を切ればまた元の自然に戻るわけですよ。何かを残すために物質的に何かを建てるとか付け加えたりはしていないですね。瞬間的なところで演出はしますが、自然に帰すということを前提で拡張、更新しています。
塩川:革新的なことを次々とやられていて、トライ&エラーを繰り返していると思うのですけれども、その中でこれだけは譲れない信念とはどういったものでしょうか。
小原:自分たちだからできることに今後もチャレンジし続けていきたいですね。他が真似できない環境があるならその環境を活かして、優秀な人材がいるならその人材を活かして、自分たちだからできることに注力し、それを掘り下げて、トライ&エラーを繰り返しながら、まだ見ぬ新しい価値を創出し続けていきたいです。
塩川:最後に、御船山に対する思いをお聞かせください。
小原:私は幼少より御船山を遊び場として感性や美意識を育み、都会での暮らしを経て故郷に戻り、あらためて御船山の美しさ・寛容さを認識しました。音楽に向かっていた自分が旅館という場所に身を置けたのも、この空間があってのことです。傾いた会社を建て直すにあたっては人一倍努力もしました。死ぬほどしたかもしれません。しかし、ずっと私が追い求めていたのは「夢中になること」です。人間だれしも努力することはできます。しかし夢中であり続けることはなかなかできないと思うのです。なにかに夢中であり続けることがとても大切だと思いますので、今後も夢中になることをこの御船山の地でやっていきたいなと思います。
塩川:「夢中」は努力に勝るということですね。本日は、貴重なお話をありがとうございました。
写真:中島 舞 / 文:宮本 とも子
御宿 竹林亭 代表
小原 嘉久
1975年佐賀県生まれ。大学卒業後、ホテルスクールを経て、旅行会社に入社。2003年(株)御船山観光ホテルに入社。2007年より代表に就任(御宿 竹林亭・御船山観光ホテル・御船山楽園)。現在に至る。