創業600余年の歴史を継承しながらも、リノベーションにより新しさを取り入れた「湯主一條」。その当主が、「泊まりたい宿」づくりの軌跡や、襲名への想いを語ります。
ゲスト
時音の宿 湯主一條 第20代目当主
一條 一平
1969年、宮城県生まれ。日本コンシェルジュ協会ホテル会員。2003年に湯主一條の社長に就任。2014年3月、裁判所の許可を得て代々続く「一平」に襲名し20代目となる。
インタビュアー
株式会社 Loco Partners 代表取締役副社長
塩川 一樹
1979年生まれ、立命館大学経済学部卒。株式会社ジェイティービーを経て、株式会社リクルートへ中途入社。旅行事業部にて、首都圏・伊豆・信州エリア責任者を歴任し約2,000施設以上の担当を歴任。2012年7月より株式会社Loco Partners取締役に就任。
「若旦那」で芽生えた、後継ぎとしての想い
塩川:まず、一條さんのこれまでの歩みを伺いたいと思います。
一條:私には姉が3人おりまして、私は4人兄弟の一番下の長男なのですね。うちの旅館は長男でなければ家業は継げないというのが習わしで、「なんとしてでも男の子を」ということで生まれてきたのが私だったのです。当時は祖父が大旦那さん、父親が旦那さま、私が若旦那と呼ばれていまして、私はあまり下の名前で呼ばれたことがありませんでした。
塩川:物心ついた頃から若旦那と呼ばれていたことで、自然と跡継ぎとしての自覚が芽生えていったのでしょうか。
一條:従業員からも若旦那と呼ばれるので、幼少の頃から自分が継ぐのだろうなという気持ちになっていったのです。
また、この鎌先温泉は湯治場として有名で、昔はとにかくお客様でいっぱいでした。子どもの頃にはそれがいいなと思っていたのですが、中学校3年生のときに東北新幹線が開業したのです。東北新幹線の開業が決まると周りの旅館はみなさん大型化していったのですが、うちは全然変わらないわけです。ほかの旅館が目の前で変わっていくにもかかわらず、うちは一切変わらないというのは、子ども心にショックでしたね。
塩川:東北新幹線の開業によって周りの温泉地、鎌先の温泉地も変わっていく様を眺めながら、複雑な気持ちを抱かれていたのですね。
一條:子どもから見ますと、古いか新しいかということしか分からない。だからこそ、他は新しいものに変わっていくのに、うちは古いままだという点をなんとかしたい、このままではいやだと感じたのですね。ですから、この古い旅館を壊して、代わりにホテルを建てたいと考えたのです。そのためには大学に進学するのが近道だったのかもしれませんが、家族の反対を押し切って東京に行くことを決め、ホテル学校へ進学しました。というのも、東京の「京王プラザホテル」に憧れがあったからなのです。当時は、夏休みになると家族で母親の実家である東京に行き、最後の1泊を「京王プラザホテル」で過ごすのが恒例でした。ドアマンがいて、フロントがあって、外国人がたくさんいて、今のようにラフな格好でホテルに来る人はいなかったのです。ホテルに行く時は皆おめかしをしていくわけです。そういう中で見たホテルマンが格好よくて、旅館の跡取りに生まれながらも「ホテルに行きたい」という気持ちを抱くきっかけになりました。
10年間を過ごしたホテルマン生活
塩川:ホテル時代のエピソードを詳しく伺いたいと思います。強い憧れを持ってホテルの世界に入られ、現在の礎となるさまざまな経験をされたと思いますが、具体的にはどのような時間を過ごされたのでしょうか。
一條:1番楽しかったのはホテル学校での研修時代ですね。研修は、まずホテルニューオータニのベルボーイからスタートしました。次に赤坂プリンスホテルの「マーブルスクエア」というラウンジに配属されたのです。それまで私はアルバイトをしたことがなく、トレイを持ったことすらなかったのです。そこでずいぶん先輩に怒られたものです。そして、そのときの先輩こそが私の妻、つまり現在の湯主一條の女将なのです。そんな研修にもだんだんと慣れ、とても楽しく過ごせましたし、研修期間が終わったときには、マネージャーから「アルバイトとして仕事を続けないか?」と言っていただけたのですね。そのことがとても嬉しくて、ホテル学校を卒業するまでアルバイトをさせていただきました。
塩川:では、その後は赤坂プリンスホテルでアルバイトを続けながら、学業とホテル研修を同時に重ねられたのですね。
一條:のちの研修では、高輪プリンスホテルの「トリアノン」というフレンチレストランにも行かせていただきました。サービスをする側として実際の現場を見る機会はあまりなかったので、貴重な経験だったと思います。そして、最後の研修場所がホテルワトソン(現:ホテルアベスト目黒)です。そこでフロント業務を担当していたところ、支配人からお誘いいただき、ホテル学校の卒業と同時にホテルワトソンに入社しました。それから3年間の勤務を経て、1996年にホテルインターコンチネンタル東京ベイに転職しました。当時はホリー・スティルの「究極のサービス」という本を読み、コンシェルジュという職業に憧れを抱いていたのですが、最初はフロントへ配属されたのですね。ただ、あるとき運よく希望通りコンシェルジュに就くことができました。それから奮起して、どんどんとホテルマンとしての仕事に磨きをかけようと努めていたのですが、そんなタイミングで疎遠だった母親と東京でばったり出会い、宿命としてご先祖様たちに呼ばれたのだなと感じましたね。
塩川:ホテルマンとして「これからだ」、「昇っていくぞ」という兆しが感じられた矢先に、大きな分岐点が訪れたのですね。10年間を過ごしたホテルからご実家である旅館に戻ることに対して、戸惑いはなかったのでしょうか。
一條:自分自身も、ホテルマンとしてのこれからをとても楽しみにしていましたし、周囲の方から「もう少しホテルで頑張ってみないか」とお声がけも頂いていました。ただ、その頃には妻のお腹も大きくなってきていたので、タイムリミットはここだと決断したのです。ホテルで経験を積むことができて本当によかったと思っていますし、自分の選択は間違いではなかったなと感じています。
変化への反発、そして「泊まりたい宿」へ
塩川:先ほど、ご家族の反対を押し切って上京されたというお話しがありましたが、ご実家である旅館に戻られてからの日々は順調ではない部分も多かったのではないでしょうか。
一條:実家に戻ってすぐに、いろいろな関係者の間で考え方の違いが明確になるということもありましたし、2006年には父が亡くなり、お客様の数も減り、「これから建て直していこう」というタイミングながら、トラブルはいくつもありました。長く勤めている従業員は、旦那と女将として戻ってきた私と妻の話をなかなか聞いてくれず、今までと同じやり方で勝手にものごとを進めてしまうのです。我々のことを認めたくなかったのだと思います。私たちが戻って来るまでは、従業員は「自分たちでものごとを進めていい」という状態だったのですが、我々はそこに逐一いろいろな注文をつけますから、新しいことをやる、現状を変えるということに大きな戸惑いがあったのですね。
塩川:いよいよこれから、というときに従業員の方々が「変化」に抵抗をはじめたのですね。
一條:これは大変でした。しかし、今まで同じことだけをやってきたために売上げが下がったのですから、何かを変えなくてはいけないことは明白です。そこで、妻は子どもをあやしながら館内のあちこちを歩きまわり、「私ならここをこうする」という構想をノート2冊にまとめていたのです。それをもとに、改革の第1弾として、もとはテレビが置いてあって洗濯物が干してあって…と、湯治のための木造本館でしかなかった場所を思い切って料亭に変えました。その頃、朝の情報番組で半年間の密着取材をしていただいたのですが、その辺りが良い転換点になりましたね。
塩川:一條さんと奥様、おふたりの行動の根底にあったのは、「何かを変えなくてはいけない」という危機感だったのですね。
一條:変える、という点においては「私たちが泊まりたい宿にする」ということを1番に心がけていました。当時は、トイレ付きのお部屋は26部屋中6部屋しかなく、8畳間といいながら畳のサイズがそれぞれ違う部屋もありました。そうした点を見直し、自分たちが「泊まりたくない宿」から、「泊まりたい宿」にすることが出発点でした。まずは料亭をつくり、和室の部屋にはトイレをつけるという工事をしたところ、徐々に評判がよくなっていったのです。その後、旅館全体をフルリノベーションしようという計画が持ち上がったのですが、その年の年末に鉄砲水に襲われまして、営業停止に追い込まれました。一旦は計画を白紙に戻し、再び設計図を書きなおして、2008年にフルリノベーションをしたのです。
塩川:フルリノベーションのあとのお客様の反応はいかがでしたか?
一條:旅館が変わったことに対してはお客様の反応も多くありましたが、やはり1番大変だったのは従業員です。今まで勝手にやってきたものを、「いらっしゃいませ」という接客の始まりから、お部屋へのご案内の仕方、お茶の出し方に至るまですべてを徹底的に教育しなおしました。そんなとき、ある従業員が「女将、こんなことをしている旅館はどこにもないぞ」と言ったのですね。その言葉に女将は「だからやるんでしょう」とすぐに反応しましたね。「この辺りの旅館でやっていないからこそやるのです」と。今までやったことのないことを、私たちはやらなければいけないということです。
塩川:変化に対応できない従業員の方をリードするのは、相当なご苦労だったのではないですか?
一條:もちろん辞めていく人もおり、「従業員を総入れ替えした方が楽だ」と言われたこともあります。しかし、中には定年まで勤めあげてくれた人もいましたし、かつては湯主一條で働いているということに皆が誇りを持っていたのですね。「湯主一條に就職が決まると、礼儀作法から着物の着付けまでできるよう育ててくれる」というのが、地元の親たちの思いとしてあったのです。うちで働いているという誇りだけは全ての従業員が持っていましたから、その誇りを大切にして少しずつやり方を変えていこうと。女将が本当に根気強くやり方を変え、接客を変えていって今があります。
天から降ってきた「襲名」と湯主一條の価値
塩川:2008年のフルリノベーションで、湯主一條は大きな変化を遂げられました。また、一條さんご自身も20代目「一條一平」を襲名するという大きな節目がありましたが、当時の心境をお聞かせいただけますか?
一條:襲名といえば歌舞伎役者や相撲取りが代表的ですが、その場合は襲名するのがあくまで雅号ですので戸籍を変える必要はないのです。しかし、私の場合は裁判所からの許可を頂き、役所で手続きをして戸籍上の名前そのものを変えてしまう方式でしたので、私もいつかは20代目を襲名しなければいけないなと思いながら先延ばしてしまっていいたのですね。それが、2003年に19代目であった父が、2012年には18代目の祖父が亡くなりまして、2013年の2月、朝起きたら「襲名」という言葉が天から降ってきたのです。朝ふと起きたら突如「襲名」と。なんの違和感もなく、「降ってくる」とはこういうことを言うのだと思いましたね。
塩川:2013年の2月に天啓を授かるようにして「襲名しなければ」と思われたのですね。
一條:2012年の12月に祖父が亡くなり、それはつまり一條家を支えてきた男性陣が全員いなくなったことを意味していました。そして、2013年2月から実際に動きはじめたのです。法的な改名に必要な書類をそろえようとしたところ、父が大切にしていた2つの風呂敷の中に、改名に必要な書類がそろっていたのですね。それで裁判所に面接をしに行きましたら、面接官の方がボロボロ涙を流しながら「離婚等の争いに関する案件が多い中で、襲名はいい話だ。がんばりなさい」と声をかけてくださったのです。その後、「生まれてきた日」であり「生まれ変わった日」にしたいという意味を込めて、自分の誕生日である2014年3月4日に改名し、正式に「一條一平」を襲名しました。
塩川:その襲名によって、新たな気づきなどはありましたか?
一條:一條一平に求める地域の人たちの思いですね。14代〜17代の4人の一條一平は、この村の村長でしたし、そういう政治的な力を持っていたというのもあるのでしょうね。安心感であったり、名前で背景が見えてくるという奥深さがあるのだと思います。そうした地域における重みを考えたときに、名前を継承することの大切さ、自分の歴史を淡々と続けて信用を積み重ねることが重要なのだと思い当たるのです。人格者として生きてきた父のおかげで、私の背景に信用がついてくるのだと感じますね。
塩川:そうした中で、今後の湯主一條の展望をお聞かせください。
一條:私は「鎌先温泉を昔に戻す」というテーマで動いています。古きものを磨き、そこに新しいものを取り入れながら、ここに人が集まるためのコミュニティをつくりたいのです。そのためにはカフェも必要です。外湯も必要です。今はまるきりそうした面影がありませんので、これから創造していきますし、お客様、地元の方々、従業員、皆が集まれる場所をつくることで、鎌先温泉という全体として1つのコミュニティができあがるのだと考えています。
塩川:まず「自分が泊まりたい宿」を実現されて、次のステップとして「地域がこうあったらいいな」という理想を求めていかれるのですね。もうひとつ、本館の建物は有形文化財の指定を受けた歴史ある建築物ですが、ここをどのように活用していかれますか?この場所も、1つのコミュニティスペースとして大切にしていかれるのでしょうか。
一條:歴史的、文化的価値を見出すことによって、この建物を残すきっかけにしていきたいと思います。レストランのような形でもいいですし、蔵の中に残っている古文書などを背景にしながら資料館もつくりたいですね。古い建物というのはデザインが素晴らしいですよね。今の建物というのは奇抜で、土地に根ざしていないものも多いのです。ここもいつかは建物を直さなくてはいけないでしょうけれども、スクラップ・アンド・ビルドをやるときにはこの土地にあったものをつくりたいですね。父がなぜこの建物に手を付けなかったか、手を付けられなかったのかと考えるのですが、私はこの価値を分かっているがゆえに手を付けなかったのだなと思うのです。
塩川:これから湯主一條がどのように展開していくのか、その自由なイメージが伝わってきます。次のテーマは、「地域とともに」ということなのですね。
一條:つくづく思うのは、集客も大切なのですが、重要なのはここを目的地にしてもらうということです。湯主一條の本館は素晴らしい文化財で、そこには教育の行き届いていてきちんと建物の説明をできるスタッフがいる。だから鎌先温泉に行く、というように、ハイセンスな方々に選ばれるような場所を目指していきたいですね。また、私はなぜここにいるのか、なぜ生まれなければならなかったのかということを深掘りした状態で、次の世代に「湯主一條」を渡せたらと思っています。
塩川:ご先祖様から受け継がれた宿命を、よりよいかたちで次世代に残していこうという心意気を感じることができました。本日はありがとうございました。
写真:熊谷 憲昭 / 文:宮本 とも子
時音の宿 湯主一條 第20代目当主
一條 一平
1969年、「一條達也」として生を受ける。宮城県出身。ホテルインターコンチネンタル東京ベイにてフロントとコンシェルジュを経験。日本コンシェルジュ協会ホテル会員。2003年に湯主一條の社長に就任。2014年3月、裁判所の許可を得て代々続く「一平」に襲名し20代目となる。