「私らしい宿をつくろう。」時の宿 すみれを後継した女将が、おふたりさまに喜んでいただく宿を目指して描いたストーリーについて伺いました。
ゲスト
株式会社黄木コーポレーション 代表取締役
女将 黄木 綾子
山形県米沢市出身。専門学校を卒業後、実家「健康の宿すみれ荘」に勤務。東京勤務、渡米を経て1998年に米沢へ戻り、「すみれ荘」で支配人、2005年に(株)黄木コーポレーション代表取締役に就任。同年10月「時の宿 すみれ」をリニューアルオープン。
インタビュアー
株式会社 Loco Partners 代表取締役副社長
塩川 一樹
1979年生まれ、立命館大学経済学部卒。株式会社ジェイティービーを経て、株式会社リクルートへ中途入社。旅行事業部にて、首都圏・伊豆・信州エリア責任者を歴任し約2,000施設以上の担当を歴任。2012年7月より株式会社Loco Partners取締役に就任。
「継がなくてよくなった」から気づいた、日本と米沢の素晴らしさ
塩川:時の宿 すみれを継がれるまでの、黄木さんのこれまでの歩みをお聞かせください。
黄木:時の宿
すみれと私のストーリーは、実は「旅館を継がなくてよくなった」というところからスタートしています。私の実家はお肉屋さんなのですが、レストランや結婚式場の運営などもしていて、そちらは長男である私の弟が跡を継ぐことが決まっていました。一方で、当時まだ「すみれ荘」という名前だったこの旅館は、約40年ほど前に祖父母が創業し、その後は叔母が経営していたのですが、父は私をこちらの旅館の跡継ぎにと考えていたのです。しかし私はそうではなく、美容師になって実家の結婚式場を手伝いたいと思っていたのですが、経営者として勉強してきなさいということで2年間、東京で観光専門学校のホテル科に通ったのです。
塩川:専門学校で実習などをしながら2年間を過ごされたのですね。卒業後は、どのような道に進まれたのですか?
黄木:米沢に戻ってすぐに、スタッフとしてすみれ荘で働きだしました。すみれ荘は一般的な旅館で、ビジネスマンのお一人様から団体の方、そして日帰りのお客様もいらっしゃいました。レストランが併設されていて、山菜そばやラーメンなどを提供していたり、実家のお肉屋さんとは当時から姉妹店でしたので、郷土料理や米沢牛料理も召し上がっていただけました。楽しく働いてはいたのですが、ここは山の中ですから、当時20歳そこそこだった私は、「ここで一生を過ごすのか」という気持ちになってしまったのです。それでだんだんと「ずっとここにはいたくない」と思うようになり、再び東京へ出て就職をしました。そして結婚し、主人の仕事の関係でアメリカに住むことになるのですが、それが最初にお話しした「旅館を継がなくてよくなった」ということなのです。
塩川:当時は、ここにいることで可能性を閉ざされてしまうのではないかと思われたのですね。
黄木:いろいろなものを見たり、経験してみたかったのだと思います。ですから、結婚して「継がなくてよくなった」、「私は別の道を生きるのだ」という思いがありましたね。ところが、アメリカでホームシックになってしまって驚きました。米沢にいるときにはその場所のよさが分からなかったのですが、アメリカに移り住んだことで日本のよさを知り、日本の文化やアイデンティティを考えるようになりました。日本にいるときには見ることのなかったNHKのハイビジョン放送で「日本の四季」や「祭り囃子」を見て、「日本ってなんて素晴らしいのだろう」と思っていました。
塩川:日本、そして米沢の素晴らしさに気づき、また日本に戻ってこられたのですね。
黄木:当時まだ結婚をしていたことと、子どもたちの教育への考えもあり、まずは東京へ戻りました。その後、父が病を患い余命宣告されたことがきっかけで2人の息子と一緒に米沢に帰ることになりました。半年後に父は他界したのですが、それが私が33歳のときです。その後、東京では不動産の会社で営業サポートなど事務系のことや営業職も経験していたので、それらを活かした仕事はできると考えていたのですが、結果的には実家のお肉屋さんに併設されたレストラン「金剛閣」で仕事を始めました。若くして父の跡を継いだ弟のサポートができたら、という思いです。
塩川:その辺りから家業の中核に近づいていくのですね。突然の環境の変化に、黄木さんご自身も、息子さんたちも戸惑いがあったのではないでしょうか。
黄木:そうなのです。子どもたちも小さかったのでなかなか思うように働くことができず、それでも土日もなく働いていましたら、今度は子どもたちの心配ごとが起こってしまって。それからは、あまり働き詰めもよくないということで、子どもとの時間も持つことに専念したり、いろいろなことがありましたね。そのときは自分たちの暮らしでいっぱいだったのです。
おふたりさま専用の宿ができるまで
塩川:そこから旅館の運営にたずさわるまでは、どういったプロセスがあったのでしょうか。
黄木:当時、叔母が還暦を迎えていたり建物も老朽化していたので、これからのすみれ荘をどうするかという検討チームをつくり、私自身も関わることになったのです。そのときには「金剛閣」での仕事をやめ、すみれ荘のフロント業務など支配人のような立場で叔母をサポートする役割にまわっていましたので、「またすみれ荘に戻って来てしまった」と思いましたね。ただ、検討チームはつくったものの、誰が継ぐかが決まらずに漠然と話が進んでいたのです。そんなとき、実家の顧問からの紹介で飯野賢治さんという方に出会い、旅館づくりのテーマについてアドバイスを頂き、「綾子さんがこの旅館を継ぎませんか?」と声をかけていただきました。私の人生が変わっていく瞬間でした。
塩川:継ぐ人がいないためにまとまりなくお話が進む中で、「継がなくてよくなった」とも思っていたことがある黄木さんに、白羽の矢が立ったのですね。継ぐことを決心された2003年から2016年まで、激動の13年間を振り返ってみていかがでしたか?
黄木:旅館を継ぐにあたっては「今後、旅館をどうするのか」ということが1つとても大切なことでしたが、そのときに飯野さんが「綾子さんがやるのだったら綾子さんがやりたい旅館をやった方がいいですよ」と、みなさんの前で言ってくださったのです。それまで囲炉裏とか、田舎らしさとか、各人それぞれのイメージでつくったシナリオというのがあったのですが、やりたい旅館をやった方がいいと飯野さんが言ってくださったことがきっかけで、私なりのコンセプトづくりをはじめました。
塩川:そこから今の時の宿 すみれへの道筋ができていくのですね。「おふたりさま」というコンセプトづくりは、どのように進められたのでしょうか。
黄木:飯野さんに教えていただいたのは、「私らしい宿」をつくるということと、お客さま像を決めるにあたって、誰にどうなって欲しいか、滞在を通して何を感じていただけたら嬉しいかを考えることでした。そのときにイメージしたのが「大切な人とふたり」だったのですね。このコンセプトを思いついたのは、私を含めて、どんな人も大切な人と支えあったり絆を深めあったりして楽しい時間を一緒に過ごすことで、日々の中にしあわせを感じるのではないだろうかということ。子どもたちとの時間がとても大切だと思っていた時期ですし、私自身が離婚を経験して感じていたこと、そんな時間を宿として提供できたらいいなと思ったのです。忙しい中やっと取れたお休みをふたりで過ごす方や、嫁いでから一緒にいられなくなった母親とふたりで旅行をする女性などをイメージしました。愛があるからこそ仕事や普段の生活が楽しく、感謝の気持ちを持てるということがありますよね。
塩川:そのようにしておふたりさま専用旅館というイメージが生まれたのですね。
黄木:例えば、時の宿
すみれにはテレビも時計も置いていません。日常から離れてリラックスしたい方がお客様像なので、あえて置かないのです。時を忘れながらもふたりのときを刻んで欲しいという願いです。調度品もすべて2つずつで、ふたりで選んでもらう酒蔵、次に来た時に別のお部屋も楽しめるようにデザインの異なるお部屋もつくりました。ふたりにちょうどいい湯船の大きさなども設計の先生と相談しながら決めていきました。
塩川:徹底しておふたりさまに喜んでいただくことをコンセプトに宿づくりがはじまったのですね。雰囲気のほかに、米沢牛に特化したところも非常に特徴的だと思うのですが、そこにある思いをお聞きしたいと思います。
黄木:旅に出れば、その土地の美味しいものを召し上がりたいという方が多数だと思うのですが、米沢といえば米沢牛ですね。実家がお肉屋ということもあり、当時の料理長と相談してお肉づくしの料理を考えたのです。最初はお肉づくしは重たいのではないかと思っていたのですが、お肉を知り尽くした料理長が「大丈夫です」と言ってくれましたし、試食会のときに重たさどころか、むしろサッパリと食べられるお料理に「これはいける」と確信しました。
塩川:目の前の鉄板で米沢牛が焼かれるというライブ感も、「おふたりさま」にとって特別な場になりそうですね。
黄木:宿をリニューアルする際にさまざまなレストランへ足を運び、研究しました。スタッフも料理について勉強し、1つひとつの部位やお料理の特徴を細かく説明します。ここでの滞在は、お部屋、ラウンジ、お風呂ではリラックスしていただき、レストランでは少し緊張感も感じていただき、最後にラウンジでデザートを召し上がっていただく。これはすべておふたりの特別な時間のためにご用意していることなのです。
「発信」が生む、新たなコミュニケーション
塩川:ここまで、黄木さんが頭の中で描いたことが時間をかけて具現化してきたのだなという印象があります。それをブログなどで包み隠さず等身大で表現し、積極的に発信されていますが、そこにはどのような考えがあるのでしょうか?
黄木:考えが大きく変化したのは、東日本大震災がきっかけです。実は、それまでの時の宿
すみれは、情報の出し方に関しては閉鎖的だったのですね。すべて出してしまうとお客さまがいらしたときに楽しみがなくなってしまうのではないかと勝手に思っていたのです。当時はおかげさまで多くのお客様が安定していらしていたこともあり、昔ながらのウェブサイトのまま情報を発信していました。しかし東日本大震災によりお客様がいらっしゃらなくなりまして、そんなときにお客様へのコンタクトのとり方が分からなくなってしまったのです。
塩川:それまでは安定していたお客様とのつながりが、絶たれてしまったような危機感を覚えたのですね。
黄木:震災が起きるまでは、日々いらっしゃるお客さまにまた次のご予約を頂くことが中心でしたので、こちらから特別にコンタクトを取ることをしていなかったのです。ところが、お客さまに足を運んでいただけなくなった途端にどうやって連絡をすればいいのか、分からなくなってしまったのです。これではだめだということで勉強しまして、まずもって「自分のこと」を発信していかなければいけないのだということを知りました。それからはお手紙のつくり方ですとか、ウェブでどういうことを発信すればよいのかを学び、それまでは閉鎖的だった時の宿
すみれのウェブサイトのスタイルをオープンなものに変えていったのです。
塩川:震災を機に、自ら発信していかれるというスタイルに転換されたのですね。お客様からの反響はいかがでしたか?
黄木:ウェブで「女将の綾子です」と顔出しをしただけでお客様が変わったことが分かりました。お客さまが「自分の写真も出していいよ」と言ってくださったのです。私は、それにとても驚きました。私が自ら情報を発信することでお客さまがいろいろなことをお話ししてくださるようになりました。自分たちのことをしっかりお客さまに伝えることが、いかに大切かということですね。「私はこういう人間なのですよ」というのをひとつ公開することによって、それに対して共感してくださるお客さまが来てくださる、見てくださるのではないかなと思っています。
塩川:2005年に「私らしい宿にしていこう」という思いで後継者としてスタートをされ、震災がつくりだした逆境によって「私らしさも伝えていこう」というふうに進化をしたということですね。
黄木:もともと独自のスタイルを打ち出していこうという考えはあったつもりだったのですが、震災を機に、それをもっと出していかなければ意味がないと気づいたのです。それを通して「おふたり」がよい時間を過ごされ、笑顔になっていただけたら、それ以上の喜びはないですよね。
使命を持って極める「帰ってきたい宿」の未来
塩川:リニューアルオープンから10年間にわたって時の宿 すみれを推進してこられたということで、手応えと困難の両方があったと思います。今後の展望としてはどのようなことをイメージされていますか。
黄木:設備を増やしたり規模を大きくしたいという気持ちはなく、今すでにいらしているお客様はもちろん、これからお越しになるお客様にとっても、「第二の故郷」となるような場所にしていきたいですね。この宿では「本当にリラックスできる」、「ふたりの時間をゆっくり過ごせる」ということを通して、「帰ってきたよ」と言っていただけるような空間を作りたいのです。宿は、おふたりさま専用旅館で、お肉づくしのお料理があって、源泉100%かけ流しの温泉も楽しめるという部分があるのですが、そのことを通して幸せになれる人たちがいま以上にあふれていったなら、それこそ最高だなと思っています。
塩川:時の宿 すみれに宿泊された方が、何度でもこの場所に「帰ってきたい」と思ってくださることが願いなのですね。その願いはまるで黄木さんの使命のようにも感じられますが、何か原体験があるのでしょうか。
黄木:1979年、祖父母がこの場所に温泉を見つけて入植するところからはじまり、この建物を建てるのですが、一緒に桜の木をたくさん植えたのです。リニューアルオープンのためのいろいろな準備をまだ一人でやっていた2005年の5月に忘れられないことがありました。米沢市内では散っていた桜が、この場所ではたわわに満開でとても美しかった。背景は真っ青な空、周りには誰もおらず、川の音と鳥のさえずりだけがある。そして桜の花を見上げたときに、ここをなくしてはいけないのだと思ったのです。目には見えない、他人には分からない前身の旅館を創業した当時の祖父母の思いが伝わってきたのです。
塩川:おじいさまたちが土地を拓いて植樹をされた、そのときの思いが伝わってきたのですね。
黄木:祖父母も、桜を植えているときに、私が見たような素晴らしい光景をイメージしていたはずなのです。昨日植えて今日すぐにこうした環境になるわけではありません。温泉も、先人が山から引いて残してくださったものなのです。そういった環境はこの場所の宝物以外の何ものでもないのだと思います。
塩川:この景色に、先人たちと黄木さんの思いが宿っているのですね。本日は貴重なお時間をありがとうございました。
写真:熊谷 憲昭 / 文:宮本 とも子
株式会社黄木コーポレーション 代表取締役
女将 黄木 綾子
山形県米沢市出身。東京観光専門学校を卒業後、「健康の宿すみれ荘」に勤務。その後、東京勤務、渡米を経て1998年米沢に戻る。レストラン「金剛閣」での勤務の後、「すみれ荘」で支配人を務める。2005年3月、(株)黄木コーポレーション代表取締役に就任し、同年10月「時の宿 すみれ」をリニューアルオープン。