2017.8.4
目次
第30回 兄弟で創りあげた宿「庭園の宿 石亭」主人が語る、日本のオーベルジュへの夢。
庭園の宿 石亭 主人 上野 純一
回遊式の日本庭園と、随所に遊び心が光る「庭園の宿 石亭」。主人がこれまでの歩み、そしてオーベルジュへの夢を語ります。
ゲスト
庭園の宿 石亭 主人
上野 純一
1957年、広島県廿日市市佐伯郡大野町生まれ。慶應義塾大学卒。大学卒業後に帰広し、30歳で「庭園の宿 石亭」と「あなごめし うえの」の代表に就任。
インタビュアー
株式会社 Loco Partners 代表取締役副社長
塩川 一樹
1979年生まれ、立命館大学経済学部卒。株式会社ジェイティービーを経て、株式会社リクルートへ中途入社。旅行事業部にて、首都圏・伊豆・信州エリア責任者を歴任し約2,000施設以上を担当。2012年7月より株式会社Loco Partners取締役に就任。
家業を継いで気づいた実情、葛藤の日々
塩川:はじめに、上野さんのこれまでの歩みをお聞かせください。
上野:子どもの頃は、父親が旅館を経営していたということを知りませんでした。わたしが10歳のときに始めていたらしいのです。元来駅弁当の販売とお酒を売ることを生業にしており、その様子を母親のそばで見たりと、厨房が遊び場だったような子どもでした。そんな生活が続く中、父親が旅館を経営していると認識したのは高校生になってからでした。子ども心には、年に1回ここ(石亭)へ来たら美味しいものが食べられるというイメージの場所でした。わたしが宿屋を受け継ぐ上では、その父親のおかげで周りからずいぶん目をかけていただきました。父は、40代半ば、若くしてこの町の町長も務めていましたから。
塩川:この町の元町長が携わっている宿として、周囲からは認識されていたのですね。
上野:父が町長のときに自ら観光の目玉として開いたのが、この宮浜温泉(宮島対岸の浜辺の温泉)です。50年前(東京五輪のころ)に、日本列島改造の流れの中、海岸線の埋め立てをすすめ、宮島の玄関口の整備を筆頭にして町の行く末をごっそり変えた人です。今でもこの町は、まだまだ人口が伸びていく場所になり得ると私は捉えています。
塩川:そうした考えは、幼少期から高校時代にかけてお父さまの背中を見てきたということが影響しているのでしょうか。
上野:高校のときに父が旅館を経営していることを認識しましたが、ほどなく大学進学で東京に行きました。大学入学後、父が目黒の六畳一間のアパートに宮島のしゃもじと石亭のパンフレットを送ってきました。父いわく、日本交通公社と日本旅行というところがあるから、そこへ行って、こういう旅館、石亭があるということを伝え、営業をしてくれ、という意味だったのです。それくらい切羽詰まっていたのでしょう。
塩川:東京へ行かれていろいろなものに触れて、進路を考えると思うのですけれども、上野さんはいかがでしたか。
上野:大学最後の4年生のときは、東京に旅館の案内所をつくろうと思いました。そうした1年を過ごし、すぐ広島に帰ってきました。そして、初めてこの宿の予約帳を見ましたら、予約が1週間に1組や2組とか、ゼロの日が多いのです。東京の案内所で働いていたときには一通りいろいろな旅館へ研修に行かせてもらいましたので、旅行業者取引名簿などの存在も知っているのですが、石亭にはその名簿もなかった。しかし、父は、商売の家に育ちましたが、行政に身を置いて、引退後は観光協会、商工会の会長を引き受け、再び行政の世界に身を置き、町のために動いていました。帰ってきてすぐにやらなければならないと考えたのは、東京より近い大阪に案内所をつくり、お客さまを呼び込むということでした。
塩川:ご実家に戻って来られて、いよいよ家業を継いでいくというフェーズに入られたところで、苦労でしたり、一方で支えになったことはありましたか。
上野:苦労、そうですね。私が「お兄ちゃん」として慕っていた料理長と決定的な衝突をしました。大阪では良い人柄のご夫妻と出会い、大阪案内所を引き受けていただきました。頻繁に営業へ行ったのですが、町の小さな旅行業者さんで、料理に難色を示されたのです。それで、お兄ちゃんと慕う相手が作るものであっても、こういうレベルの料理を出していてはいけないのだと分かりました。それからは自ら専門料理の本を買いはじめて、料理のことが少しずつ分かりだしたのです。たとえばカキフライ。それなりの竹製の盛り器、また焼き〆の器に水を含ませて、ゆずり葉や裏白のシダ葉などの青葉を添えカキフライが盛り付けられる、そこに焼き目のついた青唐辛子が添えられて、塩や酢橘が切って添えてある。その工夫の繰り返しで料理が改善していくわけですが、長いマンネリの中、板前さんが一人でやっていては限界がありました。こんなやり取りのうちにお兄ちゃんと呼んでいた板前さんが辞めることになります。新しい人が入ってくる。でも、その人もやっぱりダメの繰り返しということが数年くらい続きました。そういう料理の苦労をはじめの頃にもいたしました。
塩川:初めて営業に行かれて、自分の宿の立ち位置が分かってきて、その中にある人間関係や変えていかなくてはいけないジレンマなど、葛藤があったのですね。
上野:葛藤ではない、単なる焦りですね。もう潰れると思いました。経営者である父親に対するやり場のない怒りですね。切迫した状況の中にあって何もできない父。しかし、いろいろなところにいい顔をしていかなければいけない立場に立ち、ただ息子が帰ってきてくれたということでなんとなく安住してしまっている父親の気持ちですね。そして、駅弁当の「あなごめしうえの」もありましたから、宿と両方で未熟な支配人として携わりました。すべてが中途半端です。
兄弟の二人三脚で歩み始めた、「本当のスタート」
塩川:さまざまな課題を乗り越えて宿を再建すべく、いよいよ本当のスタートが切られるのでしょうか。
上野:1つ歳下の弟が戻ってきまして、石亭はそこからがスタートですね。それで、なんでも言えるパートナーができました。兄弟がぶつかりながら石亭をどうしたらいいか、それをずっとやりながらここまで来たわけです。我々兄弟は人前では仲良くしますけれども、実際に仕事になると弟はお客さまの目線でビシっと言ってくれますので、自分の考えを修正できますよね。
塩川:ご兄弟でぶつかり合いをよしとしながら、よりよい方向に向かっていくわけですよね。
上野:あとから振り返ると、まわりの身近な家族から見れば不注意にも見せてきてしまった兄弟げんかのやり取りは辛かったと思います。喧嘩はするが、互いに頼りあい売り上げも伸びつつありました。そんなころ、隠しカメラで旅館の中を撮影するというテレビの企画の話がテレビ局からファックスで来ました。当時は設備もだめ、厨房料理も中途半端、サービスも庭の管理もなにもできあがっていませんでした。よその旅館や地元の老舗料亭のいいところを、とにかく真似て、いつかはお客さまが満足できるような旅館になろうという漫然とした中にいました。
塩川:弟さんの支えがあって再建に向けて進んでこられて、そこにテレビ番組の企画のお話が舞い込んできたのですね。
上野:はい、弟もわたしも、テレビ番組の企画についてアンケートが来たとき、質問される旅館の備品類や料理などの内容に答えながら今の石亭に不足していることに気付いてゆきます。男兄弟二人の勢いで「これで番組の特賞を取りに行くぞ」と決めて、本当に取ってしまったのです。他とは違った庭と建物の特徴は、欠陥だらけの石亭を美しい宿に魅せたようです。それからは大変でした。「こんな設備がいいよね、では今からつくろう」というふうです。今でこそどんなにテレビが取り上げても盲目的にお客様が来られるようなことはなくなりましたが、25年前、まだテレビの時代。特賞という結果は、各地からお客様がお出ましになることになりました。
塩川:テレビの反響があったわけですね。
上野:はい、当時はテレビの情報、売れている月刊誌などの情報しかなく、お客さまがテレビの画像だけで宿を選ばれる時代でした。特に案内所を置いた大阪・関西からのお客さまが多くお出ましになりました。売上が思いのほか伸びました。板前さんも変わり、少しずつさまざまなお料理に対応できるようになっていきました。
塩川:ベンチャー企業のようですね。さまざまなご苦労がありながらも、弟さんの加入によって乗り越えられ、ブレイクされたと。そして、ついにここから次のステップに挑まれるのですね。
上野:そうですね。お客さまに来ていただけるということがものすごくパワーになっておりましたので、「できるかな」という、いい意味での錯覚をしていました。一方、自分たちに欠けていることにも気づき、宿としてどういうつくり方をしていけばよいかという悩みに直面をしていましたが、この番組を通して、すばらしい宿仲間と宿つくりを的確に指摘してくれる先生との出会いがありました。
遊び心をつくる「はひふへほ」
塩川:石亭では館内の随所に遊び心が感じられますが、そこにはどういった思いがあるのでしょうか。
上野:その時に出会った宿仲間とできた集まりが、世界宿文化研究学会です(酒の席で命名。以下、宿文研。)。仰々しくも、世界に誇るべき日本旅館の姿を追求する学会ということになったのです。取り組むためのキーワードとして提案されたのが「はひふへほ」というものでした。「は」は「儚いもの」というコンセプトです。花、匂いなどを宿の中でひとつの文化的な要素として活かす。儚いものとはなにかを検証していくことが、宿として重要なポイントであるという考え方です。「ひ」は「炎」、灯り、ライティングですね。石亭では石畳や庭園にろうそくや篝火などをすぐに取り入れました。ゆらめく篝火は閑とした庭にやさしさを生み出しました。
次に「ふ」ですが、これは「お風呂」です。現存する温泉風呂を少しでも情緒のある空間にしたいと考えて、風呂づくりをしていこうと考えました。
塩川:「はひふへほ」の残り、「へ」と「ほ」はどういった内容ですか
上野:「へ」は「ベッド」、つまり「寝る」ということですね。布団に注目したのです。当時、有馬温泉
御所坊の金井さんが花小宿を新規開業するにあたり、床の間の前にベッドを置くという構想をしておりました。今でこそいろいろな旅館が取り入れていますけれども、畳の上にベッドを置くということが美しいと気付き、将来のスタンダードとして最初にやったのは、金井さんでしょう。従来のマットレスを厚く硬質ウレタン(丸八)にして重ねることで、すぐに30センチのベットのスタイルに変更できるようにしたのも、このときだと思います。そして最後は「ほ」ですが、これは「本」です。都会のホテルにライブラリーがデザインとして表現された時でした。本好きの亭主がいる宿ならすでにロビーの一角に本がたくさん置かれていたりしましたが、それを意識してみようということです。石亭ではちょうど床下がありましたので、そこに棚を加えて本を置けるようにしました。このように、それぞれの宿の思いを「はひふへほ」で表現してもいいのではないかと宿文研で話し合いました。
「日本のオーベルジュ」を目指して
塩川:そこから上野さん流の石亭ブランドがつくりあげられていくのですね。
上野:運営する上で、嬉しいこと、楽しいこと、その向こう側には、お客さまの顔が常にあるわけです。あの方が半年後に来られる、来月来られる、と。そうすると、料理の献立を考えたり部屋の改装をしたりするときに、その人が泊まる部屋をどうつくり込むかを常に頭に置いて考えるという習慣がつきました。思いを届けるお客さまにどうしたらもう一度来ていただけるか、よろこんでもらえるかというような思いはありました。そういうことをやり切って、新しいことが芽生えていくきっかけになっていきました。
塩川:ビジョンや目標を決めて、現状との差をどう埋めていくかというのは一般的に言われることですが、上野さんのお話しをうかがっていると、目の前のお客さまに徹底的に喜んでいただく、その連続によって知見が広がったり、あるべきやり方を模索されているように思います。
上野:現場で動いていたら、料理人、配膳、庭を清掃する年配の男性から、日々の掃除をするスタッフに至るまで、私の思いを常に伝えていかないといけません。それの連続が、求める座標軸のビジョンを話しているのと同じことです。社長の思いはこうなのだ、それならこういう掃除の仕方をしないといけない、庭はこうやって維持しないといけない、料理はこうだと。それが繰り返されていく中で、肉付けがされてきたと思います。そこには、黒子に徹してくれていた弟の存在があります。
塩川:上野さんが弟さんを尊敬する気持ちがとても印象的です。先ほどお庭や床下サロンも拝見して、常人にはできないようなセンスを感じるのですけれども、どのようなご発想で居心地のよい空間づくりをされてきたのか興味があります。
上野:また弟の話になりますが、彼の家に行くと「新建築」という雑誌が積んであるのですね。彼は村上徹という方に家を設計デザインしていただいたのですが、村上徹は弟の家をつくったことで建築学会賞をとったのです。弟にはそうしたところがありました。
塩川:上野さんの美的センス、デザインの考え方は弟さんの影響を強く受けていらっしゃるのでしょうか。
上野:わたしは弟の影響は受けたと思いませんが、弟が読んできた「新建築」や「コンフォルト」という建築デザインや素材を書いた本のとりこになりました。取り寄せたバックナンバーを見ているうちにイメージが自然に湧いてきて、自分の頭の引き出しの中にデザインや素材がデータとして溜まっていくのです。それを、石亭に差し替えるということができるようになっていきました。さらにそれを仲間の旅館にも置き換えてみて、シミュレーションしていました。そんな風にしたら、とても楽しい仲間同士のやり取りとなりました。それぞれの宿屋の置かれている立場は違うけれども、今をやりきっているという感覚がありました。
塩川:ここから石亭はどうなっていくのでしょうか。
上野:運よく石亭がよく続いてきたなと思います。完全にマイナスからの再スタートでしたが、苦しい時に良いスタッフと叱咤激励してくれたお客様や導いてくれる先生たちに恵まれました。反面教師としての父と、人生の後半に入ってからも怯まずに、この石亭を開業した父の偉大さを思います。その父の残した言葉が三つ。はじめの二つは「この宿屋を大きくはするな」、と「この庭を守れ」というものです。わずか
9部屋ほどの旅館でしたから、どうやって商売をするのだという気持ちはありましたが、他にはない個性を維持しながら変化することができました。三つ目は、恥ずかしながら「兄弟仲よくしろ」という言葉でした。
塩川:上野さんの考える、未来への展望をお聞かせください。
上野:この宿は、日本のオーベルジュになるであろうという想いがあります。きっかけとなったのは、当時帝国ホテルでソムリエをされていたお客さまの「ここは日本のオーベルジュです。」というひと言でした。「石亭さんのようなところはまさに日本のオーベルジュとしてふさわしいように思うのです。」と彼はわたしを励ましてくれたのです。小さな宿であること、手入れの良い庭であることを前提として次に来る宿の背景は、美味しく気持ちよく料理を提供することです。料理長と若い職人、料理を受け取る部屋係とフロント、ここがぐるぐると上昇気流に乗るように回転していく軸を作ることが永遠に取り組む課題です。
塩川:そうすると大きな未来への展望というよりは、目の前のことをコツコツと積み重ねていこうということですね。
上野:ええ、目の前のことを積み重ねることです。そしてこれから、オーベルジュとして美味しい料理をどうやって出していくのか、今の石亭でどうできるか、を考えています。たくさんの設計の下絵を描いては捨てるの繰り返し。今まで先延ばしにしてきたけれども、できることがあると思っています。このままでは、わたしと弟がつくったやりかけの残骸になってしまう。今の新しい先進ホテルで最も重要視されているのは食の空間。とにかく面白い。年に3回も4回も来られる常連の方に「石亭さんには、まだこういう手もあったのか」と思っていただける食事とその空間。常連のお客さまには「特別なお料理を用意していますからシェフズテーブルに行かれませんか」とご案内。そして新しいお客さまにはお部屋食のご提案もできる。お客さまご自身でセレクトできることが、日本の宿屋のオーベルジュというイメージです。
塩川:宿屋のオーベルジュ。ここを追究しながら未来へ展開していかれるわけですね。
上野:食事が突破口になるだろうと思います。同時に料理人も育たなければいけません。いつも調理に集中して、お客さまに対する献立の取り組みに進んでいける。世間の環境の変化があっても良い上昇気流に乗り、擦り切れずにいられる方法は、お客さまの喜ぶ笑顔だと思っていますし、それを生み出すのは料理です。そこが、求めている座標軸へのいわば一番の近道です。それをやりきらないと、そこには行き着けないということになります。
塩川:ダーウィンの進化論のように、変化を厭わずに邁進していくということですね。本日は、貴重なお話をありがとうございました。
写真:杉原 恵美 / 文:宮本 とも子
庭園の宿 石亭 主人
上野 純一
1957年、広島県廿日市市佐伯郡大野町生まれ。慶應義塾大学卒。大学卒業後に帰広し、30歳で「庭園の宿 石亭」と「あなごめし うえの」の代表に就任。